枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

歳を重ねるということ

2010年08月07日 | Weblog
 高齢者になると、自分のしていることが認識できなくなる。歯磨きができない。先ず、洗面台に行くのがわからない。次に、行って歯ブラシと、歯磨き粉を、どうするかがわからない。洗面台まで行けても、歯ブラシをじっと持ったまま、どうすればいいのか途方に暮れている。その都度、教えてあげなければならない。食事の仕方は忘れていないが、食べたことを忘れる。お箸やスプーンが使えない。

 相手は、人間なのですから、根気よく繰り返して話しかけ、できるだけ自分でするように仕向け、忘れていることは、再度促してしてもらう。根気には、相手の行為と、自分の気力とのバランスがあって、絶妙の関係がなくては、上手くいかない。思う気持ちとは反対に、手伝ってしまったり、つい声を荒げてしまう。一人の人にだけかかりっきりになれない。次の人が待っている。そういった感情が先に立ってしまう。

 ところが、認知症の方は、こちらの感情が非常に察知し易い。つまりは心の動きを読まれて、先回りされてしまうことになる。こうなると頑として聴きいれてくれません。あっちゃ~!とがっかりしていると、途端に笑顔になる。そうして自分のすることを思い出す。何事もなかったように歯磨きを始める。歳を重ねてまで、小言を言われたくはない。そういう思いが伝わってきて、反省することしきりだ。

 今夕には、近くの幼稚園での盆踊りがあった。数人で出かけたのだが、その中の一人が、牛がいないんじゃな?と不信な顔をする。若い職員には何のことやら見当がつかない。私には、その人の盆踊りがわかったので、此処の木に牛を繋いでいたよね。五穀豊穣を願って、ご祈祷をし、出席した人々にお祓いをして、豊作を祈る。牛は、大切な家族で、感謝の意味で連れて来ていた。それには順番があり、今年は何処其処の家だった。そういった思い出を語ってあげ、今はお百姓さんが居ないから、牛も連れて来ないのよ。と話した。

 記憶の断片が繋がる。ということは、何時という決まったことではない。そういった時にも、その人の何かが、どういったことで繋がって、話しているかをわかってあげたい。その人は、誰に話しても自分の思いが伝わらず、とんちんかんなやりとりであったのが、私の心に触れて安心されたようだった。私の特技がこういったことに役立つのもいいかな?と微笑むことができた。七夕祭りも、盆踊りも同じで、人々の数少ない息抜きだった。

 子どもの頃には、年寄りのしていることの意味さえ理解できない思いだったが、歴史の中に馳せていくと、様々に渦巻く望みや、暮らしを良くするには、何ができるだろう。という試行錯誤が流れている。朝から夜なべまでして、働きづめの人生であったのに、考えていくこと、工夫することを諦めなかった。現代の人に、認知症が多く発症していくのには、テレビに守をさせ、快適な生活を与えてしまい、高齢者に何もさせていないからだ。生きる喜びを思い出させて、せめて旅立たせてあげたいものだ。

 介護の基本。って、何だろう?資格を持った人が集まり、通り一遍の安定した生活を保障することだろうか?暑さも、寒さも感じることなく、快適な生活をさせることだろうか?それよりも、洗濯が行き届いた衣類で、掃除が行き届いた部屋で、暑ければ風呂に入って、汗を流し、季節を感じる食べ物を提供して、生活を一緒に支えてあげることではないか。お年寄りが心細くではあるが、何とか自分なりに生きていける、お手伝いができたら。と思う。

 金星。宵の明星。燦然と輝く惑星に、車を止めてシャッターを切りました。
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