枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

自然の恵み

2010年08月27日 | Weblog
 杉田久女は、枇杷の実の色づきを、見事な絵心で描いている。本のタイトルでもある『花衣ぬぐやまつわる紐のいろ々』は、樹希樹林さんが演じられていて、その生きざまの凄さに圧倒された。情熱的な気持ちに駆られたのは、ただただ俳句のことばかり。その久女が、何故枇杷の実を描いているのかは、わからないが、とても心を惹かれる。枇杷に対する想いが感じられるのだ。何かしら心が温かくなる。不思議だ。

 枇杷葉には、見る者を其処に佇ませる魔力があるのか。また、やさしく留め置いて、温かく語りかける気を発しているのか。いずれにしても、目立たず出過ぎず、そのくせ和かに主張する。まるで、未来を案じるかのように。しかし気を急かす訳でも、苛立ちを見せるのでもなくて、存在しているという想いを、通じる相手を待っている。必要とする人に、躊躇うことなく気を贈られる。

 枇杷葉の気力を感じるのは、私だけではなく、各地に多く居られることだろう。また、そういった人々は、自分なりのやり方で、病を治したり、予防するべく説いておいでだろう。その人たちは、自分の力と、枇杷葉のパワーとが、緩みのない糸のように絡み合って、上に上にと伸びていくのがわかるだろうか?同時に、丸く幾重にも周りを囲むのが。

 今日は、随分と風のある気持ちのいい一日でした。勤務先では、大きな窓を全開にしてもいいくらいだし、ゆったりと過ごせる筈なのに。冷房を利かせており、誰もが動こうとはしません。でも、これっておかしい。じっとしていたら病気になるよ。おしゃべりや、自分のしたいことをしてこそ、此処に住んで居る。というものではないか?

 認知症は、医学的なことから云えば、病気でしょう。でも、庶民の人たちは、そうは思わなかった。そういった複雑な想いを越えて、家族だ。と考えていました。スフインクスの謎かけではないが、生まれては4本、大きくなると2本で、歳をとると3本になる生き物は?というもの。日本には、『子ども叱るな来た路じゃ。年寄り笑うな往く路じゃ』と言います。

 介護の仕事に就きながら、そういったことを平気で云う人には、自分の往く路が見えていません。知っているようですが、何等わかってはいない。認知症になれば、何もわからなくなるから。と嘯きますが、果たしてそうでしょうか?私には、そうは思えません。誰しも、生まれた家が、育った家が、嫁いで来た家が、堆の住処になっています。

 如何なる理由があろうと、そこから離されてしまうのです。心の葛藤があって当たり前です。言ってもどうにもならないから、黙っている。それが出来る人と、そうでない人とが居て当たり前。何か違和感があって、そこから生じてくる不安に、居た堪れなくなる。困惑状態が続いてしまい、待てなくなるのです。一緒に居てあげられるのが最善策です。

 今日も、落ち着かなくなった方と一緒に、台所に一緒に居て、勤務していました。緩やかな時が流れて、居眠りをされていました。特別なことは何もいらないと思います。我が親と考えたり、接したり、自然の儘に過ごしてもらえれば、それが一番いいのでしょう。大声で叱りつけたり、どなったりしないでも、落ち着いて居てくれます。厄介者扱いはしないで。

 枇杷葉の実が生り始めて、2年目の実。色つきも、味も、形も、粒も、申し分なくできていました。野生の物って、ほったらかしがいいんだよ。木ネズミが話していました。
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