枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

心が萎えている・・・

2010年08月26日 | Weblog
 新しい出来事に遭遇すると、先ずは躊躇う。その次には、外見を改めてみる。自分に必要かそうでないかを決める。今まで、その殆どが、途中止めになった。まともに取り組もうとしない。理屈をつけて手を出さない。優柔不断である。小心者である。時々、自分でもびっくりするくらいの、突飛もないことをやらかす。その度に親にはこっぴどく怒られた。

 中学生の時、裏山に登ったクラスメイトの中、数人が下校時間になっても、教室は愚か、何処にも見当たらず、大騒ぎになっていたことがある。安全である路を通らず、獣道を下りた数人は、校舎の屋上を目印に、ひたすら下山した。本来なら、数十分で下りて来れる道順を、1時間以上かかって。首謀者は誰であったか?見た目には一直線であるから、確かに早いのだが、空でも飛ばない限りは無理なことであった。

 私は、しかし。あの時の不安と、未知なる世界へと続く興奮とが、諦めずに下山させた。と思っている。誰も、言い出した者を責めなかった。唯、男子生徒だけでなく、女生徒が居たことが、非難された。不思議なことである。今なら、何と言われているだろう。でも当時は、お転婆だの、女だてらだの、大いに賑やかな巷であった。大きなお世話だ。

 困難に出会っても、自分たちで考え、どうすればいいのか話し合う。人間が生きていく上で大切なことは、冷静に判断して、方向を見誤らないこと。諍いをしないこと。知恵と勇気と決めたことを守る事。そうして決して諦めないことだ。と、今までも、これからも思っている。まあ、最も冬場であったから、獣道を下りたのだが・・・。

 夏場と、冬場の山は違う。知っているようで謎が多い。山は、恐ろしいし怖い。そうして穢れを、殊の外嫌う。山に住まう神を怒らせてはいけない。祖母が決して近寄らなかった日が、三隣亡だ。山に上がる時には、塩を口に含んだり、体にかけていたこともある。最近は山が荒れている。ゴミが棄ててある。車で何処までも上がって行く。惧れを知らない。

 枇杷葉を、軒端に植えないというのも、神は山におわしますもので、家の傍には住まわれない。という想いがあったためか。人間の勝手な想いが、枇杷葉を、迷信扱いしているのかも知れない。枇杷葉にとってこそありがた迷惑。私としては、こんなに効果がある枇杷葉を誰彼に知ってもらわなくてもいい。教えてあげません。髭剃りにも効くんです。

 勤務先に、新人さんが来られた。どうかなぁ。ちょっと分かり難い。直向きさと、努力する取り組みは、大いにある。このところ、大いに心が凪いでいるからだが、不遜な風向きを感じます。誰かに取り入るのではなく、相手の立場に立った、介護ができるのがいいね。疲れているのか、今は、心が萎えているよ。私は、私でありたいのです。

 銀河の昼寝。横向きになって、まるで人間のようです。
コメント
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