先日来、薄紫の花が、山間に咲いていて、それが酷く気になるのだ。青空市までの川沿いにもあって、大木に似合わず可憐な花をつけている。旧暦のメモに、せんだんの花が描かれている。知らないとは気づかぬものか。それこそ、恋焦がれた栴檀の木であった。
友人に聴いても、説明が不十分な分、あやふやな言い方で、更に気がかりは増す。街中には決してなく、田舎に行くほど、点在しているのも不思議だ。孫に言うとも無く話していたのだが、電話口でせんだんだと言う。友達のおばあさんが知っていた、と語る孫である。
せんだん。栴檀!ああ、あれが栴檀の木。福島正信氏の『藁1本の革命』に、旧暦の連載記事にあった、探していた栴檀なのだった。とても不思議な匂いも漂う。枇杷葉の傍に植えたく、苗を求めているのだが、手に入り難い。大木とも云う。こんなに身近にあった。
栴檀の木は、一昔までは何処にでも見られ、農薬代わりにされていたのだ。戦前はむろんのこと、戦後もかなりあったらしい。然し、巨木になるためと、農薬がアメリカから入ってきたため、邪魔にされて伐られていった。10mはあるもの。場所の確保に困るわなぁ。
何だか、胸の内がすっきりした。執念が通じたのもうれしい。何年来の想いであることか。心が撓れてしまわない内に、わかったのもよかったこと。唆されたとは言え橋立姫の、彼の真の姿を知りたい想いにも似ていようか。夫は三輪山の神で、姿は白蛇であった。
性格上、気になると追求し、探求してしまう。何だか瘧にかかったようになる。何も手につかなくなり、上の空になる。物煩いだ。これが高じてくると、食事処ではなくなる。これもまた、生かされていることの感謝だ。忘れていくこともあるが、新しい知識も必要なのである。
自然と暮していれば、自然が近い分、却ってわからなくなることもある。今回がそうだ。栴檀の木が、こんなに傍にあったことも驚きだ。我が屋敷には植えることはできないが、毎年の眺めに張りができた。無闇に伐られないことを、心から願い、祈るばかりだ。
早春の或る日。ドクダミの芽が出ていることに気づく。今は、白い可憐な花を咲かせている。消臭効果があります。