枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

閏皐月、上弦・小潮

2017年07月01日 | Weblog

 朝、突然の雨である。出勤なので、弁当の用意をしていたところ、凄まじいい雨音にびっくり。厭々梅雨時なのだ、雨は降るわと思いつつ、田植えが出来なかった地域や、雨量の少なかった場所のあることを考える。自然の厳しさも。

 福島第一原発の事故は、予見できていたことは明らかなのに、東電の責任逃れには納得できない。むろのこと、国の遣り方にも。それなのに、当分は津波など来はしないと、高をくくって、再稼動させたり、耐炉年数を延長させる策が。

 事が起きて、日本が沈没でもしない限り、こういった容認は無くならない。何にしても、金が動くことでもあるので、行政としては堪えられない。でも、人間だけでなく、生命の維持を保つなら、原発は要らないのに、と心が波立ってくる。

 消えてしまった地域や、物言わぬ命への鎮魂は、口先だけの物だ。人間有利の生活しか念頭に無い。花や虫にも命が宿り、彼等の営みで、人間の暮らしも出来ることに気づきたい。人間だけでは何も創れず、繁栄も見出せないのだ。

 枇杷葉を見ていても、木々の上の方の実は、野鳥が啄ばんでいる。利口だなぁ、と感心する。人間には分らない熟れ方が、自然の生き物には知れる。特に烏は上手に啄ばむので、こちらの知識の無さを痛感する。自然の教えは尊い。

 すばるが、割合に慣れてきて、悪戯を始めた。探検にも厭きてきたのだろう。餌は、朝と夕方の2回に遣るが、きれいに平らげる。枇杷葉茶も飲んでいるので、排泄物が臭わない。知人が来ても、仔猫の気配さえ感じないのも可笑。

 枇杷葉茶のお蔭で、暮らしに潤いが出てはいるが、年金も減り、介護保険料を無理やり払わせられるとあって、憮然としていい気はしない。国民、それも庶民の低所得者から、捥ぎ取っていく。生活の保障など、欠片も見当たらないが。

 冬の晴れた日に。抜けるような青空に立つ、枇杷葉。花芽も鈴生り状態で、とても感動した昨年です。

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