枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

生きるということに・・・

2018年05月13日 | Weblog

 昨日までの勤務が、気温の変化もだが、精神的なことで疲労困憊であった。今朝は、明け方からの雨で、起きたものののんびりとする。久々の休日らしさ。枇杷葉への袋掛けも終えているので、新月を待つだけである。娘夫婦は転勤で、この雨空でも有る。訪問者は居ないと読書に耽る。

 昨日の気温に比べ、急激な変化が付いていけない。 風邪を引いては元も子もないので、通草酒で体調を整えておく。衣類も、半袖を着ようと出していたが、気温の低さに替える。不安定な今年の天気には、それなりの理由があるが、自然からの兆候を知っていなければ危ういものだが。

 野バラが咲き出してきて、緑に美しい。卯の花もそろそろだろう。田植えの始まる頃には、この花が匂いだし、時鳥もけたたましく鳴きだすのだが、気温不穏にて聴こえて来ない。自然破壊も夥しいので、生存さえ不明になっているのだろうか。枇杷葉の恩恵を大切にせねばと痛感する。

 すばるの首輪がきつくなったが、穴が無いので緩められない。錐でもあればいいのだが、道具類が全くない。息子に言えばいいのだが、何時来るとも分からずで、当てには出来ない。用事がある時には来ず、どうでもいい時には遣って来る。前以って知らせる配慮はなく、今もこれから。

 生きることは、踏ん張りも要るが、体力的なこともあって、しんどいなぁと思う時がある。でも、身体が健康であれば耐えていける。自分で選んだ路でもあるので、往くしかない。ここから若くはならないので、死へと向かうのみだが、終い支度を心掛ける必要も出てきた。険しいものだ。

 おひとりさま、という言葉も定着して、極当たり前になったようだが、人間産まれた時が一人ならば、死せることも独りである。孤独死が哀れな様相となっているが、自然に還るのだからこれでいい。生前、親しくしていれば、必ず予知できる。夢枕に立って別れを告げる。哀しみは深い。

 枇杷葉のお陰で、年齢を感じさせないらしく、殆どの人がびっくりする。医者に罹らず、自然治癒能力を維持できることが、何よりもうれしい。天の援けに祈りと感謝を怠らずであれば、生かされているんだろう。三度の食事を摂れることもあり難い。枇杷葉で、病気知らずなのもうれしい。

 すばるの大きくなった姿に、来た当時を思ってしまう。やんちゃ坊主の悪戯ものであり、高い場所に上がって下りられず、首輪を引っ掛けて死にかけもした。獣医に行った帰りには、号泣した様子が可笑しく、唖然としてしまった。我が家に来て1年以上となり、愛しさも増している今日。

 きらん草が、あちこちに飛んで、発芽しているのを見つけた。今年、それらは株が増えた。

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