子どもが小さい時に、雨の迎え時、乗せてくれた方が、距離を置いてはいるが、偶には誘ってよ。と言っていたのを、薔薇園に行きませんか?と声掛ける。覚えていてくれたと声を弾ませるのを、迎えに行った。一つは、里の近くにある薔薇園。片や、小学校を利用しての庭園に行ってきた。
町内ということもあり、知った顔を避けているのを、声を掛けられてしまう。子どもが同じ同級生とあって、満更素知らぬ顔も出来ない。ところが、月日は過ぎてしまい、同伴者が誰か分からないらしい。そういうものなんだと思いつつ、未知との遭遇を喜べない。良く言えば明るい人だが。
散策を終えて、次の目的地に着いたら、丁度昼時になる。食事をしようと席に行くが寒い。冷房が入っていて、そそくさと食べて出る。自前の珈琲を持参してのことだが、同伴者は持ってきていない。珈琲は好みでないようで、水を飲んでいた。帰る前に、苗物屋に寄ったのが悪運であった。
決まらないんだなぁ・・・。花は、目が遭った瞬間に、持たないと駄目である。じっと見て、さっと決めてやらねば、何時まで経っても買えない。ヘリオトロープがないのが分り止めた。今年は寒かったからね。電車の時間が迫っているのに、悠長にするのを注意して、やっと買うのであった。
市内の花苗店に寄ろうと、少し遠いが近場の駅まで行く。電車の時間が10分後で、改札口で見送る。ちょっと疲れた・・・。花苗店にもヘリオトロープはなかったです。昨年は、白があったのを店員さんに話すが、今年は入荷してないそう。時期がずれているのかな。次回に期待しようかな。
帰宅して、すばるにただいまを言い、着換えて洗濯物を仕舞う。本日は、天気は回復したが、地面が濡れているので、蒲団干しはしなかった。洗濯物は二日分乾く。雨の休みには、読書が可能なのもうれしいもの。
山本悦子さんの、神隠しの教室は、宮部みゆきさんの多大な影響を、受けていると云わざるを得ない内容だった。二番煎じというか、これといって賞を貰える程の、と思える節もある。今までのミーハー的な言葉や、内容からしたら、可なりの進歩かも知れないが、何か物足らない感じも拭えない。
異世界での経験というか、体験をしたことがないと、やはりこういった書き方になるんだろう。何も往きたくていくのでもないが、突然時空を超える、というのは説明できないもので、言葉では無論のこと、書けないものだ。それを自由自在に書けるのは、宮部みゆきさんを於いては居ないと確信。
宮城谷昌光さんの、新三河物語は、大久保彦左衛門の現わした、三河物語を基に書かれているそうだ。徳川家康の人生観というか、江戸幕府が、何百年も続いた意味がよく分かる。織田信長も、豊臣秀吉も成し得なかった構想を実現させ、天下泰平を目指した業績は大きい。人間の太っぱしらだね。
こいのぼりを掴んだ途端、ずり落ちた。未だ、我が家に来て間なしで、悪戯ばかり。