二十四節気 大暑 暑熱、最も甚だしい、と言う意で大暑と呼ばれる。毎年、七月二十三日頃である。暑いのは暑中でもあり土用とも重なってのことで、梅雨時の肌寒さからは打って変わって気温であるもの。湿気が少ない分多少は良いものの、一般的に機械管理では不平不満が奔出する。それまでに想定しての対応が必要。
土用の期間は土を触るのを避ける。この暑さであり、金神様始め諸神に於いて、人間にも実に分かるように暦に記してある。従って外仕事は出来ないので室内の片付け、CDを整理していると聴いていないのが出てきた。トワ・エ・モアやベートーヴェンの交響曲、果てはエイトマンの主題歌までが。懐かしくて何回も聴く。
で・今朝もその続きをしていたが、過去記事の配列換えにかかる。温水器はスイッチがONにならずで、電源が落ちるばかりで業者に連絡する。来たのはいいが直せない上に原因究明があやふやで、加えて連休事態に入浴不可。電気屋にも多々あろうが子ども使いではないか、取敢えずの策を聞きだしお帰り願った次第だが。
こういった一連の作業が自分で分って遣れればいいとも思えるものの、其処が儲けの算段でもある。便利な生活の落とし穴に、風呂を焚きつけて沸かしたくなるがどうなんだろう?電気もガスもボイラーも壊れた時が厄介だわ。ソーラーシステムは資源が太陽熱なので設置は安心だが、資本金が手元不如意。何れも儲ける算段。
年金だけの独り暮らしへの嫌がらせか?とも思える対応だが、便利で快適なことへの要望は望んでいないのに。暑い時期なので行水をすれば宜しい。すばるも洗わねばならないが、枇杷湯を洗面器に容れてやろうっと。無ければないで工夫も愉しいというもので、電気代の節約にもなる。融通の利く範囲での暮らしにしよう。
台風が沖縄方面に寄せているようだが、その気配は感じられなく天気はあっ晴れ。土用乾しが続行できて、布団も臭いが消えていく。昨日図書館で借りた牧野富太郎博士、植物を想う姿には紛れもない愛情が溢れている。それにしても膨大な植物の名前の分類もだが、細部に渉る絵の美しさであろうか。とても真似できない。
牧野富太郎博士にとっては、名誉も金にも執着せずであったようで暮らし向きは貧乏そのもの。自分の為でなく、生涯をかけて遣れることなのか?植物図鑑も、自分で何もかも習っての発刊であった。小石川植物園では、其処に記された絵の素晴らしに圧倒された。四国には未だ行けてないし旧邸も訪れたく計画中なのです。
絵手紙や写真撮影にも、被写体は同じ物なれど観た感じが異なるのは何故だろう。カメラが良いのは勿論のことだが、何処が違っているのだろう?岩合光昭さんの猫の写真には、まるで人間に語り掛けている気がするよ。猫で撮るのか、単なる被写体なのか、はたまた生き物として同等に接するかで観る者の心を掴み離さない。
土用の期間は土を触るのを避ける。この暑さであり、金神様始め諸神に於いて、人間にも実に分かるように暦に記してある。従って外仕事は出来ないので室内の片付け、CDを整理していると聴いていないのが出てきた。トワ・エ・モアやベートーヴェンの交響曲、果てはエイトマンの主題歌までが。懐かしくて何回も聴く。
で・今朝もその続きをしていたが、過去記事の配列換えにかかる。温水器はスイッチがONにならずで、電源が落ちるばかりで業者に連絡する。来たのはいいが直せない上に原因究明があやふやで、加えて連休事態に入浴不可。電気屋にも多々あろうが子ども使いではないか、取敢えずの策を聞きだしお帰り願った次第だが。
こういった一連の作業が自分で分って遣れればいいとも思えるものの、其処が儲けの算段でもある。便利な生活の落とし穴に、風呂を焚きつけて沸かしたくなるがどうなんだろう?電気もガスもボイラーも壊れた時が厄介だわ。ソーラーシステムは資源が太陽熱なので設置は安心だが、資本金が手元不如意。何れも儲ける算段。
年金だけの独り暮らしへの嫌がらせか?とも思える対応だが、便利で快適なことへの要望は望んでいないのに。暑い時期なので行水をすれば宜しい。すばるも洗わねばならないが、枇杷湯を洗面器に容れてやろうっと。無ければないで工夫も愉しいというもので、電気代の節約にもなる。融通の利く範囲での暮らしにしよう。
台風が沖縄方面に寄せているようだが、その気配は感じられなく天気はあっ晴れ。土用乾しが続行できて、布団も臭いが消えていく。昨日図書館で借りた牧野富太郎博士、植物を想う姿には紛れもない愛情が溢れている。それにしても膨大な植物の名前の分類もだが、細部に渉る絵の美しさであろうか。とても真似できない。
牧野富太郎博士にとっては、名誉も金にも執着せずであったようで暮らし向きは貧乏そのもの。自分の為でなく、生涯をかけて遣れることなのか?植物図鑑も、自分で何もかも習っての発刊であった。小石川植物園では、其処に記された絵の素晴らしに圧倒された。四国には未だ行けてないし旧邸も訪れたく計画中なのです。
絵手紙や写真撮影にも、被写体は同じ物なれど観た感じが異なるのは何故だろう。カメラが良いのは勿論のことだが、何処が違っているのだろう?岩合光昭さんの猫の写真には、まるで人間に語り掛けている気がするよ。猫で撮るのか、単なる被写体なのか、はたまた生き物として同等に接するかで観る者の心を掴み離さない。