枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

水無月、望・大潮

2021年07月24日 | Weblog
 今朝は、行水の用意をしておく。温水器の中には水は溜まっているが、湯は沸いていないので減っている。昨晩には一昨日に続いて塩での洗浄で、上がり際に枇杷湯をタオルに浸して絞り身体を拭いた。何かが起きた時の対応には誰にも指図されなくとも、自分で考えての行動が出来る。枇杷葉さえあれば杞憂なのだ。

 塩と枇杷湯でのマッサージ施行の為、身体がポカポカしてくるのも有難い。それにしても昔のように風呂は焚きつけたい。のんびりとは入れればそれでいいのに・・・便利で簡単な機械には落とし穴が多い。夏の時期でもあるので、バケツに水を張っておけば温度は上がる。ガスも電気も無ければ自然から学ぼうなの。

 ある方のブログに埴輪が・土偶があって、リエさんが書いている あっぱれ!どぐうちゃんを再度載せたくなった。へぇ、青森には木村秋則さんの林檎にしか興味がなかったが、六ケ所村には原発の放射能が放置されている。今晩のEテレでは、第五福竜丸の生存されての方が出るようで津軽海峡冬景色だけではない。

 今晩は満月なので、明日からの星空に期待したい。月の昇って来る時間が遅くなるので、宇宙は眺めも良くなる。目当ては木星と金星だが、天の川も夏の大三角形は見事であろう。宇宙を眺める醍醐味は、何かがあるからではなく、其処に存在している景色を観られる幸運を感謝する。発見があれば尚由でもあるのだ。

 幸せの定義には及ぶ物ではないが、災害が起きれば当たり前のことを感謝させる向きがある。何故?普段に気づけないのだ。或いは事が起きるのは察知できることだ。自分に無関係だからいいのか、生活が変転しなければ幸せなのか。個人の価値観の違いなのだろうなぁ・・・慌てず騒がずで居られるのが好いんだわ。

 ブログも何時止めるか不定だし、訪問して下さっている現時点で更新しないかもしれない。共感してくれることもあれば、意見の食い違いも生じて来るだろう。そりゃ、当たり前よ。他人なんですもの、半身(萩尾望都さん)であろうとも異なっている。手塚治虫氏のブラックジャック登場・ピノコもそうなんだよな。

 ジュデイ・オングさんの歌ではないが、魅せられる対象も個々に違っている。花にであり、動物だったり昆虫や爬虫類等、或いは書籍でもあると思える。対象が異なっているから楽しめ、感動に至り想いを膨らませる。ブログ内では尚更で、鯨は海だし、宇宙には化物鯨のフォーマルハウトが、アンドロメダ姫を襲う。

 幾つになってもトキメキを失わないでいたいが、川柳にもあるように動悸になってくる始末。今朝は厭なことがあって調子が悪い。まあ、暑いからであると言い聴かせて室内で過ごしているよ。外の水遣りは必須なので、夕方までには落ちつけたい。水分不足の脱水でも、コロナ禍の影響でもないのは確かですから。
コメント
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