枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

節電

2012年06月07日 | Weblog

 電気は必要だが、使い過ぎはよくない。然し、料金さえ支払えばいい。という考えもあろう。幾らお金があっても、基の資源がなければ使えないのだが。原発は、少しの資源でたくさんのエネルギーを生み出すから、便利で好いとされる。

 だが其処には、核のゴミが出て、しかも放射能を残す。永い気の遠くなる年月、消えない。人体だけでなく、地球そのものが汚染される。便利さは人類を横着に、怠慢にする。この頃、特に思うのは、機械の力を借りることより、体を動かせるのがいい。

 時間もかかれば、労働はしんどい。けれども、暮らしの中に自然に入れていけば、これはもお誰でもできる。工夫をすること、考えることは頭脳を活性化する。脳に刺激を与えるので、自ずと思考する。テレビをぼんやり観ることもない。

 冷暖房をつける前に、フイルターの掃除をしよう。或いは、埃の原因を確認して、清潔を保とう。このところ、眼が痒くて堪らない。埃の中にいるダニの種類が飛んでいる。帰宅したら着替える。眼も枇杷ローションで拭いた。痒みが消えた。

 花木店での購入した桑の実は、昔のとは全く違う。昨年、ジャムにしたAさん、来年も要ると言われるので持って行く。そのことをすっかり忘れて、甘くないとの不評。甘いのは取っている最中に落ちるのよ。至難の業で取ってはみたが、果実酒にお薦めする。

 お天気が続くので、枇杷葉がしな垂れる。水遣りをする。鉈豆が発芽して、蔓を伸ばしている。手をしておく。バッタが葉を茎ごとかじっていた。小さな体に似合わぬ跳躍。ランタナが咲き始めた。鉢に植えたミニバラが咲く。金魚草も風に揺れる。

 アリッサム。色々、買っては来るが、白い色しか増えない。花苗屋さんは、毎年買ってくれるのがいいようだ。

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宇宙の神秘

2012年06月06日 | Weblog

 太陽を直に観ようとしても、余りの眩しさに観られません。仮に二つの太陽があれば、人間は外では暮せない。というか、日が沈まないし、月は存在しない。従って、命の誕生はみられない。地球という星も、誕生していないことに、なりはしないか。

 などと、太陽面を通過していく金星を観ながら、宇宙の神秘さを想っていた。科学の力で解明できているとは云え、わからないことの方が多いのも事実。また、膨大な宇宙の仕組みが、そんなに簡単にわかろう筈もない。

 生き方の違いや、物の考え方の相違が、偶々偶然の発見に繋がり、知り得たこともあるかも。未知なることだからこそ、確かめていくのが面白いのだ。つまりは興味が尽きない。何に対してもだろうが、関心を持ち、探求していけるkとが素晴しい。

 薔薇の挿し木をしたんだが、さあて上手くいくかな?近所の悪ガキが、うろちょろするので油断ができない。自転車での通りぬけは平気でやる。自分地と、他所地の区別がつかない。親の躾がなっていない。いや、親自身のことですな。

 蛍が飛んでいることも知らず、塾に行って、遅くに寝る。子どもの頃には、外で遊ばせる意味も、勘違い平行棒というくらい、甚だしい。子ども達だけを、ほったらかしにするでない。大人が一人は見守りをしなきゃ。何やっているの?親は。

 物事の基本は、一体何か?と思わず考えてしまう。言わなければならないことも、云われないで済むようにはできないものか。何が、どう違うのか、最近は解り難い。子育ての根本は、育む中で親も育っていくこと。呆れ果ててしまう。

 晩春の頃、新芽が出てきた。あまり早く出ると、遅霜にやられる。

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枇杷葉の不作年か

2012年06月05日 | Weblog

 枇杷葉の木をあちこちで見かけるが、どうやら今年は不作の年か、袋もあまり掛かっていない。我が家だけではなさそうだ。店頭に並ぶのもこれからだが、手に入るかなぁ。昨年の分がたくさん漬けてあるから、ローションも種も心配はない。

 ドクダミも、我が家で飲む分には、充分な量がある。地下茎で伸びて行くので、引っ張ればいい。地下にちょっとでも茎が残っていれば、どんどん増えるのだ。先日の墓参りで、実家のドクダミを探したが、除草剤をかけられて、何処にも見当たらなかった。

 農薬をかけることは、人間の住む場所をも、自ずと失くしていくことになる。土も微生物が死に絶え、木も生えない。草が生えたとしても、向こう10年間は、其処に生えた物には、残留薬がある。空気も汚れていくのだ。環境破壊である。

 木村秋則さんの自然農法には、とても興味深いことが載っていた。土の中の世界のことを、人間はどこまで知っているのか?人間のことさえも、詳しくわからないというのに、土や自然、況して宇宙のことなど、わかる筈がありません。

 自然の力が働いて、地震や津波を引き起こすのは、これは抗うことはできない。けれども、原発は、人間が自分達の利益の為に、造って、作動させてきた。天災ではなく、人災です。エネルギーは使い方次第で、生かされもするし、武器にもなる。

 広島に落とされた原爆は、ウラン型の物で、長崎に落とされたのは、プルトニューム型の物。この差は何だろう。放射性物質の恐怖は、福島で終わりにしてほしい。科学と、人類の共存はできないのだ。後悔先に立たず、と言うではないか。

 クリスマスローズが咲き終わった。この状態から種を落として、自然発芽する。枇杷葉の下に置いているからか?

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曇ったんだ・・・

2012年06月04日 | Weblog

 厭な予感はしたが、一縷の望みにかけた。然し、台風には、自然現象には勝てません。これまでにも何回か観ているから、絶対に観たいというのではない。やはりそこは、運もあるのだから。明後日の太陽面、金星通過にかけよう。

 昨夜。真夜中・・・草木も眠る丑三つ時。はっと気づいた時には、布団に誰かが乗ってきた。眼が開かない。直接に頭に声が聴こえた。金縛りだ。声を出そうとして、中々出ない。何か悪さをするのでもなく単に物を言っているだけ。

 体の呪縛を解くのに、力の限り叫んだ。ふっと気配が消えた。それから酷く後悔した。もしや父ではなかったかしら?お墓掃除のお礼にやって来たのか。それにしても、娘を驚かすとは。仕事中、湯飲みとコップの中身がひっくり返った。

 まあ、そういったことはしょっちゅうあるのだ。視えていることもあれば、部分的にしか視えないことも。いや腹も立つ。だが、実体のない者に、怒るのが間違い。最近の事故状況は、頭を扉にぶつけるわ、転びそうになるわで、痛ったぃのなんの・・・

 健康な人間の歩行と、何処か体調が悪い時とは、微妙ながら違いがある。だが、自分では自分が見えないから、確かめようがない。そういった時には、他人の言うことを素直に聴こう。病院嫌いの私としては、そうならないように気をつけている。

 枇杷葉茶はもちろんだが、腰痛予防に湿布を。体調不全にドクダミ茶を飲む。田舎の敷地内は、薬草の宝庫だ。都会でも、自分地の敷地なら、誰に遠慮がいろうか?夏は涼しく、冬は暖かい。原発に頼ることなく過ごせるは云うに及ばず。

 今年の春。孫たちを連れて出かけた。天守閣には、改修中の布の絵が描かれていた。ちょっと残念だった。

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墓掃除に・・・

2012年06月03日 | Weblog

 朝、雨音が聴こえた。団地の掃除だが、人の気配がない。しばらくすると、草刈機のけたたましい音がしてきた。空は曇っているもの、雨粒は落ちて来ないようだ。竹箒で草を集め、掃き寄せる。小一時間後、息子が来たので、実家への墓掃除に行く。

 近所の小母さんが、石垣の上から見下ろす。名前を告げ、墓への道を上がる。お墓は、草枯らしをかけられ、赤茶色になっている。軍手で取っていると、瞬く間にぐっしょり重たくなる。ご先祖の墓にも草が生え、除草剤を撒いている。

 父母の墓の草を丁寧に抜き、回りを刈り込んだ。筍は掘りに来ているが、墓の掃除などしていないことは明らか。曄筒の水を換え、シキミを活けていく。父母を先にしたら水が足りなくなった。ご先祖さまに詫び、シキミだけを活けておく。

 掃除の最中、鶯が清らかな声で啼く。息子と二人、聴き惚れる。鶯は、丁度排卵の時期らしい。オスがメスへの求愛の鳴き声だ。直ぐそこに居るのがわかる。気取られぬよう、素知らぬ顔で作業を続ける。父母の志かもしれぬ。御仏の慈愛なのかもしれない。

 帰宅し、洗濯物をして、庭に降り立った。晴れてきている。ああ、お墓掃除に行ってよかった。きっと喜んでいるんだ。父母の気持ちが伝わってきて、清々しくなった。桑の実をせっせと捥ぐ。Aさんは、ジャムにするという。ドクダミも採った。

 夕顔の苗を持って行く約束なので、1株掘る。サルビアの苗が大きくなっている。芍薬が満開になっており、薔薇も咲いている。初夏の陽射しの下で、眩しくきらめく。生かされていることを感謝し、お墓掃除に行けることもうれしい。

 3株買ったもので、これだけ残っている。さて、花が咲くかしらん?

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命の不思議・・・

2012年06月02日 | Weblog

 とある植物園で、ジャックと豆の木の花が、11年振りに咲いた。というニュースが流れたそうだ。花が咲きにくいというか、管理が大変なのかは知らぬが、中々咲かないらしい。数年前、あの木は枯れかけていた。瀕死の状態で、訴えてきたのだ。タスケテ・・・

 毎朝、仕事に行くと真っ先に、水遣りをする。語りかけ、心の糧を注ぎ、生きて頂戴。と渾身の気持ちで接すること1週間。新芽が吹き出し、甦った。その後は、緑色の小さな蕾を、やがてそれが白い蕾に変わった時、翌日には芳香の素晴しい純白の花になった。

 以来、水遣りを欠かさず、心を通わせることに心血を注いだ。何と、3度咲いた。それ以後は、置いてある場所から移動されて、萎れてしまった。事情があって其処の仕事は止めたが、あの木がどうなったかは知らない。きっと無残に捨てられてしまったのだろう。

 白い絹織物の、衣擦れの音をさせて、かの人は現われた。とても美しい人だった。艶やかな面差しとは、この人のことを言うのかもしれない。小さいがきりっとした眉、愛くるしい口元。涼やかな目元には丸く澄んだ、一重の瞳。

 宮部みゆきの物語にでも出てきそうな、怪奇な話かもしれない。あそこで異様な体験をして、余りの恐ろしさに、止めてしまったが、今でも恐怖が這い上がってくることも。足が向かないのは云うまでもないが、見えない物にも、命が宿っていることに気づいた。

 予知することは、私の任務かも知れぬが、その責任までは背負いかねない。わかっていることを教えてあげたとしても、そのことを信じるか信じないかは、相手にあること。偶々、みえたから云ったまで。大難を小難に変えることはできても、取り去ることは不可能。

 ジャックと豆の木の花のつぼみ。白い貴婦人が視えますか?

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商魂たくまし・・・

2012年06月01日 | Weblog

 新暦と旧暦をごちゃ混ぜにした、朔日まんじゅう。朔日というのは、旧暦でいう新月のこと。衣替えも、旧暦で言えば、5月21日なのだ。いい加減である。またそれを利用して、儲けようとするやり方に、ちょっと怯んでしまう。

 何事も、都合よく思い巡らせることに、半ば厭きれてしまうが、そういった人たちは、他人も喜んでくれるからいい。とうそぶく。正直者が莫迦をみる。然し、そこで考えてみた。人は他人だ。己の生き方をこつこつと歩けていれば、逝きついた時は無心になれる。

 前世も、現世も来世にも、自分に正直に生き、貧しい暮らしでも、自然への想いを感謝していれば、何も恐れるものではない。自然を侮らず、克てて真実にあれば、宇宙の中に還れる。見える物も視えない物にも、神の意思を感じる。

 この2ヶ月近く、掃除がしたくて堪らないのを、我慢していたが、どうにも辛抱が足らず、やはりきちんとすることにした。人任せは精神的によくない。床の上を埃が歩く様など、堪らない思いだ。但し、本業をこなしていくこともしよう。

 体は、動かしていないと、動作が曖昧になる。皮膚も弛む。背筋を伸ばして、目線の高さでの、丁寧な対応をしよう。心の動きを敏感に感じ取ろう。勤務中の緊張感は、心地の好さがある。私にしかできない仕事の流儀を見つけよう。

 ゆりかごのうたを カナリアがうたうよ~ねんねこ ねんねこ ねんねこよ・・・・・子守唄です。親の子に対する、温かさが沁み出ています。歌詞の2番に、枇杷の実が出てきます。びわのみがゆれるよ~。皇后様のやさしい歌声を忘れられません。

 小てまり。あまり大きくならない。というので買った。以前のは、どんどん育っていくので、毎年刈り込んでいる。

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