大戦に果てし郷土のみ霊らを偲びて一団那覇に降り立つ 嘉子
「房総の塔」に献花をいたしました 追悼式に参列されました千葉県遺族代表の皆様
1.日 程 平成18年11月23日(木)~ 25日(土)
2.主 催 千葉県 ・ (財)千葉県遺族会
3.追 悼 式
(1)日 時 平成18年11月24日(金) 午前10時20分~11時00分
(2)場 所 沖縄県糸満市摩文仁の丘 「房総の塔」
(3)参列者
・主催者代表 千葉県副知事 ・ 千葉県遺族会会長
・来 賓 沖縄県、糸満市、沖縄県遺族連合会長ほか
・遺 族 35名
・千葉県職員 健康福祉部長ほか
連日27度の真夏日 の中、追悼式参列及び戦跡巡拝と遙かフィリピンレイテ湾に眠る父への慰霊の旅に参加を致しました。
この度の追悼式参列の為に千葉県から戴きました資料の一部を転載させていただきます。
1.南方諸地域の千葉県出身戦没者 3、693人
(内訳) 沖縄・南西南洋諸島 5、636人
東南アジア 12、927人
中国・台湾 6、073人
ニューギニア・ビスマーク 6、048人
その他 5、009人
2.沖縄戦の犠牲者(沖縄県平和祈念資料館の資料による)
日本 188,136人 沖縄県出身軍人軍属 28、228人
沖縄県出身民間人 94、000人
他都道府県出身 65、908人
(内千葉県 1、608人)
米国 12、520人
尚、平成18年6月23日現在
千葉県の「平和の礎」刻銘者数は1、609人と戴きました。
「平和祈念資料館」を見学して詠む
口に掌を覆ひて嬰児死なしむる女(おみな)写れり足のすくみぬ 嘉子
「作品評」を頂きました。
沖縄の太平洋戦争の戦跡をめぐる歌。
激戦地の跡だけに戦後、数多く詠まれているが、何十年経っても戦争がもたらした悲惨は語り尽くせない。
そして、「足のすくみぬ」のように各人各様に胸に刻むべきだろう。
「しづたまの碑」に詣でて
一村の全滅したる跡に建つ「しづたまの碑」に花絶ゆるなく 嘉子
2日目 11月24日(金)
沖縄平和祈念堂 島 守 の 塔
平和祈念資料館 「米軍戦車のキャタピラ」と書かれていました。
1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。
90日に及ぶ鉄の暴風は島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。
沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦でありアジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。・・・続く(平和祈念資料館 設立理念より)
平和を願うメッセージ 太平洋を望む丘の上に建立された 「平和の礎」
房総の「平和の礎」に刻まるる1600余のみ柱のみ名 嘉子
「房総之塔」 (追悼式会場)
(碑文) 房総にまたかえるなきみ霊らよ海坂とおきここに鎮みて
兄偲ぶ友と並びて「房総の塔」に今し深々額づきてをり 嘉子
訪ふたびに涙にかすむかの日々よ摩文仁の丘に平和を祈る 嘉子
「房総之塔」は昭和40年12月3日、紺青の空と白波の打ち寄せる緑の地「摩文仁ヶ丘」に建立されました。
塔は、戦没者のみ霊を慰め、子孫の繁栄と世界の平和を祈るため、合掌の形をとり地下には、戒名を遺族みずからの手で書かれた3万5693柱が埋葬され、県花、菜の花をデザインした
径80センチの陶器モザイクによる玉魂を祀ってあります。
太平洋を見渡せる高台に在ります。沖縄戦での戦没者17万8000余柱が合祀されています。
黎明之塔 黎明之塔の碑文
黎明之塔は摩文仁の丘の最も高い場所に建立されています。
第32軍司令官牛島中将と長参謀長の最後の地であって昭和20年6月23日、この洞窟内で古武士の型に習って自決した。
沖縄では毎年6月23日を慰霊の日としている。
この高台に立ち、遙かフイリピンレイテ湾に眠る父へ語りかけることが出来ました。合掌
亡き父を偲びてレイテの方に向き摩文仁の丘に両掌を合はす 嘉子
【ひめゆり平和祈念資料館を訪ねて】
入 場 券 ひめゆり平和祈念資料館
資料館に向かう皆様 碑 献花をさせて頂きました
青春の真只中に散りたるを惜しむもむなし供花捧げゐて 嘉子
旧海軍慰霊塔 大田中将が自決されました司令官室
司令官室の壁面には 「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」 と大田中将の歌が鮮やかに残されています。
大田實中将の生家に建立された顕彰
昭和48年6月千葉県長柄町高山にある生家の長屋門入り口左側に有志により顕彰碑が建てられています。
昭和20年6月6日、決別電報と辞世の句を打電。
同日夜、沖縄県民の献身的な戦い振りを述べ、後世にわたる国の配慮を訴えた世界史上不朽の
電文 「沖縄県民斯く戦へり」 を打電。
13日幕僚6人とともに自決、54歳の仁愛と波乱に満ちた生涯を終える。
辞 世 身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は
沖縄の県民守り果てたりし大田中将郷土の誇り 嘉子
あらためて「自決」の言葉思ひたり歴史の重みまざまざとして 嘉子
深き壕闇(くら)き底より今もなほ鶴嘴の音聞こゆるごとし 嘉子
首里城
大戦の過去は過去とし復興に琉球文化のかをりも高く 嘉子
首里城について(パンフレットより抜粋)
首里城は琉球の王城であった。
東西225間、南北約150間、面積1万9千坪の広大な城郭で正殿は琉球第一の大建築で昔から百浦添(支配の意)と称し、また俗に唐破風
ともいった。
正殿の外重要な建物は北殿と南殿で、北殿は純支那風で冊封使歓待のため建てられたもので平常は摂政、三司官が政務を執っていた。
南殿は純日本式建物で慶長役後薩摩の使臣を歓待する場所、首里城は今次大戦で残らず破壊された。
しかし本土復帰20年を記念して1992年に首里城公園として当時の姿のままに復元されました。
首里博物館について
沖縄は古くから日本、中国及び南方諸国などの文化を吸収同化して独自のすぐれた文化を築いてきた。
戦前国宝に指定された幾多の建築物や芸術品があったが、戦争のためにその貴重な文化もことごとく壊滅してしまった。
戦後灰塵の中から掘り出したもの、あるいは遠く海外に散在していた旧文化財を買収蒐集して保存陳列してある。
懇親会は副知事さんを初め、ご来賓の皆様とご一緒に郷土料理に舌鼓をうちながら美しい琉球舞踊に沢山のを贈りながら楽しい夕べのひとときを過ごしました。
慰霊終へ交はす言葉に和めれば名残り尽きなく泡盛に酔ふ 嘉子
だはりも過ぎてはらからと語りをり今ある幸をかみしめながら 嘉子
ご挨拶される吉田 憬副会長様 記念写真
吉田 憬様には長い間千葉県遺族会副会長としてご指導を戴いて参りましたが、この度後進に道を譲られました。
傘寿を迎えられて益々お元気にご活躍、この度の追悼式は15回目の参列と伺い一同大きなで感謝を申し上げました。
「100歳まで慰霊を続けたい」と力強いお言葉を戴き、もとても迫力のある素晴らしい歌声で北島三郎さんの「山」をご披露して下さいました。
懇親会終了後は琉球舞踊のレッスンや衣装の着用を試みましたり参加の皆様と自由時間を楽しみました。
琉球舞踊のレッスンの修了証書を頂きました 思い出の衣装をつけて頂きました 私 ↑
3日目 11月25日(土)
気温 27度 真夏日。 8時スタート
沖縄美ら海水族館へ 最後の は沖縄フルーツらんど
3日間の慰霊の旅も関係者のご配慮のおかげを持ちまして日程の全てを終了し無事に帰路に着くことが出来ました。
関係各位の皆様に心から御礼を申し上げます。
有り難うございました。