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石川丈山之詩と詩仙堂について

2010年09月11日 21時23分23秒 | 書道

                    
               
この度、「千葉市老人クラブ会員作品展示会」 に初めて出展のお誘いを頂きました。
早速、書道の先生にご指導をお願いに参りましたところ、石川丈山の最初の作品とも言われております富士山を流麗に詠まれた素敵な詩を選んで頂きました。
先生のお話に、師匠でありました故種谷扇舟先生がお好きな詩でも在りましたこともお伺いいたしました。
この大切な詩について先ず、作者の偉大さを学び、3年前に尋ねました素敵な詩仙堂に思いを馳せながら、心を和ませ、先生の御指導に感謝を申し上げ、ひたすら優しく墨を擦り、筆を持ち続けました3週間でございました。
9月11日(土)何とか表具屋さんにお願いする事が出来ました。
今は、練習に悔い無し!の気持ちです。
石川 丈山(1583―1672) HPより転載して学ばせていただきました。
江戸初期の漢詩人。名は凹(おう)。丈山 (じょうざん) は字(あざな)。
六六山人、四明山人、凹凸(おうとつか)などと号した。
代々徳川氏に仕える三河武士の家に生まれたが、大坂夏の陣のとき軍律を犯してとがめを受けたため武士を捨て、藤原惺窩(せいか)に入門して詩を学んだ。
1641年(寛永18年)洛北(らくほく)一乗寺に 詩仙堂 を築いて隠棲(いんせい)し、林羅山(らざん)、元政上人(げんせいしょうにん)ら当時著名な文化人との
風雅の交友を楽しみ、詩文に遊ぶ自適の生涯を送った。

詩仙堂 の名は、中国の詩人36人を選んで狩野探幽(かのうたんゆう)にその像を描かせ、壁に掲げたことにちなむ。
儒学に比して漢詩の地位の低かった江戸初期に、詩作をもっぱらとした点で特異な存在であり、作品は『新編覆醤集(ふしょうしゅう)』に収められる。
とくに「富士山」と題する七絶、
「仙客来遊す雲外の巓(いただき)。神竜栖(す)み老ゆ洞中の淵(ふち)。
 雪は(※)素(がんそ)の如く煙は柄(え)の如し。

 白扇倒(さかさま)に懸(かか)る東海の天」
は人口に膾炙(かいしゃ)する。

(※)の文字は 糸偏に丸 ですが、どうしても表示をする事が出来ません。
 ※ 膾炙(かいしゃ) = 人々に広く知れ渡ること。 (辞書より)

詩仙堂(しせんどう) 国指定史跡。HPより転載して学ばせていただきました。
京都市左京区一乗寺門口町(もんぐちちょう)にある山荘。
江戸初期の文人石川丈山(じょうざん)が隠棲(いんせい)した。
詩仙の間とよばれる堂内の四方の壁に、三十六歌仙に倣った中国漢・晋(しん)・唐・宋(そう)の詩人36人の額(狩野探幽(かのうたんゆう)・
尚信(なおのぶ)画、丈山詩)を掲げたところから 詩仙堂 の名が生まれた。1640年(寛永17年)着工、翌年完成。

丈山は以来ここに移り住み、72年(寛文12年)5月、90歳で没した。
以後、丈山を慕って訪れる人も多く、1748年(寛延1)に建物・庭園が改修され、1967年(昭和42年)には大改修が加えられた。
庭園は東南山際に滝をつくり、敷地を貫流する渓流を設け、下部を刈込(かりこみ)物、上部を雑木林とし、中央は白砂敷きとし、閑雅なたたずまいをみせている。
点景物に丈山愛好の 織部灯籠 (おりべとうろう)や ししおどし などがある。
なお、1966年(昭和41年)からは曹洞(そうとう)宗の寺院となり、詩仙堂丈山寺という。

2007年(平成19年)5月4日の京都旅行の折りの  より


             詩仙堂入り口                座してみる庭園はまさに額縁に収めた名画

  
           詩人36人の額                       ししおどし

コメント (6)
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