長崎平和祈念式典 平成25年8月9日 (金)
気温
式典会場 長崎市松山町の平和公園 司会進行役の高校生のお二方
「ひまわり」 合唱団の皆様の 「もう二度と」 の歌で開始された式典
この1年間の死没者3404人を追加して162083人の名簿が「奉安」されました
水を求めて亡くなられた犠牲者へ被爆代表他の皆様による 「献水」
市長・遺族代表による 「献花」 「長崎の鐘」 と共に黙祷 合掌
長崎市 田上市長の 「平和宣言」 のお言葉
長崎市 田上市長の 「平和宣言」 のお言葉
原爆投下に15万人が傷つき7万4千人が逝去 「平和の泉」
昭和44年8月3日建設された「平和の泉」の碑に刻まれている少女の手記
のどが渇いてたまりませんでした
水はあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
ーあの日のある少女の手記からー
「子らのみ魂よ」を合唱する城山小学校の5年生6年生の児童の皆様
被 爆 校 舎 被爆のマリア像
被爆校舎について(HPより)
長崎原爆落下中心地から西に約500m離れた小高い丘の上にある長崎市立城山小学校は、大正12(1923)年、九州初のコンクリート3階建て校舎の城山尋常小学校として設立
されました。
緑に囲まれた白亜の校舎は、モダンな学校として当時は有名でした。
昭和16(1941)年4月、城山尋常小学校から城山国民学校となりました。
昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、長崎に落とされた原子爆弾で、このあたり一面は廃虚となり、学校にいた28人の教員、3人の庁務員および学校に居た三菱兵器製作所員
58人、挺身隊員12人、学徒報国隊員42人が亡くなりました。
生き残ったものはわずかに先生3人、兵器製作所員9人、挺身隊員2人、学徒報国隊員4人でした。
また家庭にいたこの学校のこども1,400人余りが亡くなり、この地区の家庭にいて助かったこどもは50人あまりに過ぎませんでした。
校舎の一部や半円形の窓を持つ階段塔屋は爆風による倒壊をまぬがれました。
現在、階段塔屋部分は長崎市原爆中心地近くに残る最大規模の被爆建造物として保存されています。
保存されている被爆校舎の一部は、児童の発案により、1999年2月に内部を資料館として改装されました。
被爆マリア像について(HPより)
1929年(昭和4年)、聖堂に取り付けられた祭壇には木製の聖母マリア像が装飾されていた。
1945年の原爆投下により本堂は倒壊するが、戦後マリア像の頭部は神父によって瓦礫の中から発見される。
その後、トラピスト修道院や純心女子短期大学(現:長崎純心大学)の教授・片岡弥吉によって保管され、1990年(平成2年)にマリア像は浦上天主堂に返還された。
バチカンには1985年(昭和60年)と2010年(平成22年)に訪れており、2回目の訪問の際にはローマ教皇ベネディクト16世に祝福を受けている。
現在ではこの聖母マリア像を世界遺産に登録するための運動も行われている。(平成28年登録される)
ちなみにこの像のモデルはムリーリョの『無原罪の御宿り』とされている。
長崎市は8月9日(金)68回目の原爆の日を迎えました。
爆心地に近い長崎市松山町の平和公園で、長崎市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が行われ、今年の被爆者の平均年齢は78歳を超えましたと報道されました。
犠牲になられました多くの皆様のご冥福をお祈り申し上げ、後世に伝える為に綴らせていただきました。合掌