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私の11年前の3・11 ~ 宮城県 閖上地区の慰霊の旅

2022年03月14日 17時36分45秒 | 洋上慰霊

               私の11年前の「3・11の記録」 ~ 「閖上地区の慰霊の旅」を振り返りました。
       戦没者遺児が亡き父の戦没地を慰霊訪問したいとの切なる思いから、平成3年に実施開始から平成23年は20周年を迎えました。

        これを記念して海で犠牲になられた兵士のために初めて 「洋上慰霊」 が実施され、千葉県代表として参加の機会を頂きました。

                   「慰霊友好親善事業20周年記念「洋上慰霊」に参加して」          
               
日  程 2011年(平成23年)3月5日 ~ 16日 (11泊12日)
               
参加者 44都道府県から 363名 (内千葉県参加者14名)

       「洋上慰霊」 7474.7kmに及ぶ運行航路                  お世話になりました 「ふじ丸」

 
      44都道府県から遺児
参加者363名                 団長様を囲んで千葉県遺児参加者14名
                                       千葉県より十四名の遺児われら面識無くも縁を思ふ 嘉子
3月11日 (金) 「東日本大地震発生」 については 「サマール島北方洋上慰霊祭」 が終了後に艦内放送により知る事となりました。
夕刻頃より船も大分揺れはじめ、廊下を歩くことがとても困難だったことが思い出されます。海上では、電話、携帯、テレビ 全て不可。
被災地の皆様には連絡に特別の配慮があったようですが、
私たちはラジオから聞こえるアナウンサーの声に耳を傾け、事の重大さに誰もが心配、不安でしたが、被災地とされる皆様にただただご家族のご無事をお祈り申し上げておりました。



                                              次々にボードにはられた記事の一部より
   「洋上慰霊の三・一一を詠む」
      「ふじ丸」に届く「東北に津波発生」南方洋上にすべなく聞けり
       船内のテレビ・携帯すべて不可 短波放送を息こらし聞く
      「ふじ丸」が揺れ始めたるは夕刻で洋上慰霊の人ら歩けず
       次々にボードに貼らるる津波報に被災地の戦争遺児ら呆然
       数万人の安否不明の記事に見る瓦礫の山は被爆せしごと
       日本の実態は知れずサマール沖航行中に大地震(おほなゐ)に遇ふ
       轟轟と白く立つ波星明かりに浮かべば命あるを思ふも
      「落ち着いて行動せよ」と幾たびも亡父の声聞き死も想定す
       三日後の父島通過に東北の甚大な被害を映像に知る
       次々と伝ふる被害の映像は地獄図のごと戦争と重なる

私ごとになりますが、2011年3月11日14時46分頃に発生しました「東日本大震災」時は、父が乗船しておりました「鳥海」が眠っていると思われますサマール島北方
にて「洋上慰霊祭」を執り行って頂いておりました。
その「東日本大震災」時(時間差に1時間遅れ)に
千葉県代表として「追悼のことば」を奉読する機会を頂きました事は生涯忘れる事ができない洋上慰霊の旅となりました。
翌日、3月12日の午前中の慰霊祭には東日本大震災の犠牲者のみ霊に黙祷と合掌を捧げました。

「宮城県 閖上地区の慰霊の旅」 
 2011年(平成23年)3月5日~16日 (11泊12日)に実施されました 「遺児による洋上慰霊」に宮城県から参加者中に3・11 東日本大震災に配偶者・親族の
 皆様が犠牲に遭われたお方がおりました事に平成27年度 第4回目の「想い出の会」を「宮城県 閖上地区の慰霊の旅」として実施されました。
日 程 第一日目 2015年(平成27年)4月27日(月)  気温  日中は28度とも報道されました。
         13:15 仙台国際ホテル 1Fロビー集合

         13:40 ホテル出発
         14:00 宮城県護国神社参拝(青葉城本丸跡)
         15:50 東日本大震災被災地 慰霊・視察
         17:00 ホテル到着
         18:30 懇親会開始
「先ず宮城県護国神社参拝」
 
      宮城県護国神社参拝 「第4回 洋上慰霊想い出の会」 参加者 51名             参拝記念御朱印
「東日本大震災被災地 ・ 閖上(ゆりあげ)地区 慰霊視察へ」
宮城県名取市(HPより)
閖上地域の人口を見ると、大震災前の2月末時点で5612人だった。

しかし大津波で壊滅した閖上は、かつて活気に満ちた漁港を中心にほとんど更地と化してしまった。
名取市の犠牲者数は1027人(不明者は119人:6月10日現在)にも上っており、そのほとんどが閖上地区に集中している。
9月末の人口は2410人となり、犠牲者だけでなく多くの住民が閖上から姿を消したことを物語っている。
多くの人が犠牲になった主因は他地域と同様に、まさかここまで津波は来ないとの思い込みによる避難の遅れであるが、ここ閖上にはもう一つの要因、車での避難者が大渋滞に
巻き込まれて身動きが取れないまま多数の人命が失われたことが挙げられる。
8月3日の河北新報社証言記事が詳細に報じました。
写真は2015年(平成27年)4月27日撮影

 
                   3.11の被害に遭われた閖上(ゆりあげ)地区の慰霊と視察
 
         
お地蔵尊が各所に建てられておりました            土台のみが遺る住宅跡地に咲くチューリップ
 
 土盛り工事中の多くのダンプとクレーン車が目につきました      8.4メートル忘れぬ名取・閖上に「震災慰霊碑建立」                                           
「震災慰霊碑」は
日和山近くの市有地に建てられた。盛り土の上に立つ白御影石の碑は植物の芽生えをデザインしたものです。
地面からの高さは一帯を襲った津波と同じ8.4メートルに設計されました。
種をイメージした黒御影石の碑には 「亡き人を悼み故郷を想(おも)う 故郷を愛する御霊よ 安らかに」 と刻まれました。
944人の犠牲者名を記した 「芳名板」 も設置されました。
 
     石碑には追悼のお言葉が刻まれていました                  日和山公園跡の表示板
  
                  日和神社参拝                                                     日和神社を後方より撮影              
「日和神社」は標高6.3mの日和山。津波はこれより約2m高かったと言われています。
 神社の境内に立つ松の木の3分の1程まで水が来たそうです。
 かつてはここに上り「今日は良い日和」と海を街を眺めたところから日和山 → 日和神社となりましたことを伺いました。

   閖上(ゆりあげ)地区 慰霊視察に詠む
     「洋上慰霊の想い出の会」(おもひでのかい)でおとなふ仙台はまづ閖上(ゆりあげ)地区の慰霊に
     立札に「ふるさと閖上大好き」とあるも見渡す限り茫々
     住民の大量流出にも土盛りするダンプや重機が砂煙あげる     
     閖上の慰霊碑は八・四メートル津波と同じく忘れじと建つ
     被災者の再起にかくる意思示し植物の芽と種のデザイン
     家々が瓦礫と化ししその跡に賑はふ花の小さくゆるる
     犠牲者が掌ふるごと穏やかな閖上湾の波のきらめき


               過去ログですが、3・11の状況を私自身が振り返るために記録しました。
                  「慰霊友好親善事業20周年記念「洋上慰霊」に参加して」 
               日  程 2011年(平成23年)3月5日 ~ 16日 (11泊12日)

                 慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して (3-1) 
                 慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して (3-2)
                 慰霊友好親善事業20周年記念 「洋上慰霊」 に参加して (3-3)

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8 コメント

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Unknown (matsubara)
2022-03-15 08:13:44
この日の記事はよく記憶しています。
遠い洋上で震災にあわれていたとは
永遠にお忘れにならないと思います。
その後慰霊の旅にも出かけられた
のですね。
返信する
Unknown (縄文人)
2022-03-15 09:06:23


 〇 亡き父へ 想いは続く いつまでも
        3,11 「洋上慰霊」 (縄)

  よく細かな記録・・・ただただ関心いたします。

わが父も軍人でした。病に倒れ戦病死。
  親の顔は全く知りません・・軍属のアルバムで見た程度です。
返信する
matsubaraさま (oko)
2022-03-15 13:55:27
お訪ね頂きましてありがとうございます。
千葉県代表の追悼のことばの奉読、艦長子息との出会いに
感謝しながらも洋上慰霊の折の3・11は終生忘れることができません。

閖上地区の復興を願いながら現在に思いを致しております。
返信する
縄文人さま (oko)
2022-03-15 14:14:49
お訪ね頂きましてありがとうございます。

お父様のご冥福をお祈り申し上げます。

思いのこもりましたお歌をありがとうございます。
父の声、姿がわからずにいつまでも父を偲んでおります。

旅の記録はブログからワードに編集して参加者の皆様に
お届けしております。
皆様からは写真は裏に記録しないと様子がわからないが、
日程通りにまとめて頂くとありがたい!に今まで頑張ってまいりました。
返信する
先の大戦 (ヒキノ)
2022-03-17 13:30:55
大岡昇平「レイテ戦記」という記録文学、読んでみようと思ってるのですが、まだ読んでいません。
戦争は人災、地震は天災、人災には怒りがこみあがり、天災には哀しみがこみあがります。

閖上には2011年11月尋ねましたが、その4年後の閖上の記録、よくわかる報告です。
2011年11月の私のブログです。
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/2955f7bf0bc35975b2c7bac0baf40476
返信する
ヒキノさま (oko)
2022-03-17 20:25:01
閖上慰霊の旅、拝見いたしました。
大変な時にお出でになられました事に驚いております。
まだまだ被害そのもだったことでしょうね。
お疲れ様でございました。

洋上慰霊の神戸港下船は3月16日お昼過ぎ解散でしたが、
東北地方にの皆さんは、列車は動かず、自宅、家族の安否はわからず
何日間も神戸にとどまりご苦労があったそうです。
私たちはどうしてあげることも出来ずに「お先にゴメンナサイ!どうぞお気をつけて」が精いっぱいでした。

後日、ご主人様、ご家族の多くが犠牲になられました事を伺いました。

私は親しい友人にブログをワードに編集してお届けのために
日程ごとにだらだらと記録しております。

貴重な記録をありがとうございました。
返信する
あれから11年 (yoshikazu)
2022-03-17 23:44:24
ご無沙汰致しております。
パソコンにスイッチを入れると、素晴らしい文章が飛び出してきて、
さすが同年代における期待の星だなーと、ご活躍の様子、
我が事のように喜んでいます。
11年前、洋上慰霊の旅に出られる時、千葉駅で確かN嬢と二人で
見送りしたと記憶しています。
当時の船の様子や、その後一緒に乗船された東北の被害者の様子等何度か
当時の状況を記載されたはずですが、もう一度読んでみたいなーーと思います。 
早いものですね。もうあれから11年です。お元気でお過ごしください。
返信する
yoshikazuさま (oko)
2022-03-18 11:26:52
すっかりご無沙汰申し訳ございません。
嬉しいお便りをありがとうございました。

あれから11年、その節はご厚意の程に感謝を申し上げております。

未熟なブログですが、歴史倶楽部を初め、慰霊の旅など自身の想い出になります。

だいぶ温かくなってまいりましたが時節柄ご夫妻様のご健勝をお祈り申し上げます。
返信する

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