奈良の前田様から頂きました東吉野村をお訪ね致しました折りのお と のお言葉をご紹介させて頂きます。
「先日、東吉野村へ行ってきました。
東吉野村は奈良県の南東部に位置し、伊勢街道(裏街道)が通じ、紀州候の参勤交代の通り道に当たり、当村の「鷲家」は江戸時代は紀州領でした。
東吉野村の特筆すべき事柄は、「日本オオカミ」の最終捕獲地であること。明治維新の魁となった「天誅組」の終焉の地であることです。
日本オオカミは、明治の初めころまで、本州・四国などにかなりの数が生息していたようですが、その後急減し、明治38年(1905年)に東吉野村鷲家口で捕獲されたのが、日本で最後の捕獲記録となりました。
当時英国から派遣された、東亜動物学探検隊員が、地元の猟師から8円50銭で買い取り、現在は大英博物館の標本となっています。
一方天誅組は、幕藩制度の支配体制を打ち破って王政を復古させようと、行動を起こした志士達で、前侍従中山忠光候を主将に、土州津野山郷出身の吉村寅太郎など約80数名の人達が加わり、文久3年(1863年)8月14日孝明天皇が攘夷祈願のために大和へ行幸すると仰せられたのをきっかけに決起し、皇軍の先鋒となって大和に先行し、天皇の鳳輦を迎えようと京都を出発。
8月17日には大和五条の代官所を襲撃して代官鈴木源内を討ち取り、天領7万石余りを支配下に置きました。
しかし、翌18日に「天皇の大和御親征の延期」など京都で大政変が起き、皇軍御先鋒と言う天誅組の大義名分も失われ、幕府軍の反撃追討によって次第に戦局も不利となって東吉野村まで追い詰められ、追討軍が同村に入った9月24日からの1週間余りの戦闘で、天誅組は壊滅し、終焉を迎えることとなった地です。
なお、東吉野村には、神武天皇ゆかりの水の神様「丹生川上神社中社」や、台高山脈の北端「高見山」があります。
高見山は大相撲「東関」親方の四股名の由来ともなっています。
道しるべは、江戸時代の交通の要衝を示すもので、「江戸」を指す道しるべとしては、最西端に位置すると言われています。」
丹生川上神社 ニホンオオカミの像 道 標
天誅組史跡 天誅義士戦死の地 天誅義士吉村寅太郎の碑
高見山
私のページは、巾が狭いため横に
3枚も入りません。
matsubaraさまのおかげで新しい事を学ばせて頂けます幸せに感謝をしております。
お写真の順番、説明など学ばせて頂きました。