山行きや史跡探訪の折に時々、小幡の街中を通過する。途中で目立つのは
旧宗福寺にある「織田家七代の墓」であるが何故七代 ? に付いては既に
忘れ去られようとしているのではないか?
上の写真は織田家七代の墓、五代から七代の三基は1758年と1871年の
宗福寺の火災によって損傷している。
簡単に言えば1767年の「明和事件」に連座して織田家八代目の信邦が出羽・
高畠藩に左遷されたからである。この明 . . . 本文を読む
遂に天候が安定、だが相変らず雑事は多いし、おまけに今週半ばにゴルフコンペ、
山行きをぐっとこらえてぶらりと旧子持村の石像物の見物でお茶を濁す。
(1) 双林寺
出だしは曹洞宗の名刹・中郷の双林寺へ。高崎から25号線で渋川を抜け、17号線
に合流して北上。鯉沢を過ぎて「子持入り口」信号を左折して子持神社方面に。
中郷小を右に見て進むと左手の森の中に大伽藍、参道先の駐車場へ。
ここが参道入り口 . . . 本文を読む
(3)玉山神社
17号線を数キロ北上して暮沢バス停脇の雑貨屋さんの先に玉山神社、
ところが駐車場所がない。此の辺は17号線が尤も狭いところ。仕方なく
少し先からUターンして200㍍離れたモツ煮の「永井商店」に駐車。
往来する車を避けながら神社に来ると草茫々で寂れている感じ。
雑貨屋さんの人と雑談したら「近頃、猪が集団で降りてきてるから
絶対に山に入ってはならねーよ」とキツイお達 . . . 本文を読む
(5)白井宿周辺
(イ)鯉沢の道祖神
17号線を鯉沢まで戻り信号を左折(東)したカーブの所に白井宿の
道標。その下に双神道祖神、元禄期のもので県内最古に属すると
されるが余りにも奇麗なのでこれは別物 ?
(ロ)吹屋の薬師堂
蛇行する細道を東進すると左側に薬師堂、
入り口にある子持山の自然割石に深彫りされた庚申搭が実に見事。
境内の右手に新しい「華月庵の鞘堂」、その隣に並ぶ石像 . . . 本文を読む
町名標識漁りもいよいよ最終段階の西部地区。信号機が少なく探し物は
中々見付らないし、片側一車線の道は駐車に苦労する。
やっと九つだけゲットして終了とした。
(53)浜川町(旧長野村)
「長野」の地名は七世紀の古墳時代まで遡るのは定説だが、戦国時代この地に
あって善政を誇った豪族も当然長野氏を名乗る。だが、余りにも領民のための
政治理念から、他国を侵さずの方針は長野氏を戦国大名たらしめることな . . . 本文を読む
(40)石原町(旧片岡村)
711年の「続(ショク)日本紀」に既に「片岡郡」と名が記されている様に
高崎で一番古い地名と云う事になっている。元は乗附・寺尾・石原の
3町だったのだが、昭和42年の和田橋開通を契機とする急速な
市街地化により50年に八千代・片岡・聖石、56年に城山の各町が誕生。
「石原」とは文字通り大水の度に荒れ果てる「石の原」という地形から。
字清水にある808年に坂上田村麻呂 . . . 本文を読む
定例のゴルフコンペは終わったが天気の具合がぱっとしないので又もやジイ散歩、
第三弾は高崎東部地区を一回り。
(28)江木町(旧塚沢村)
この標識は江木町の南端、東町との境にある。354号線と東三条通りとのこの
交叉点は今年の秋完成を目指して拡張大工事中。
「江木」の地名は既に戦国時代に「縁喜之郷」とか「恵木」の記録が在ると言う。
古来、井野川支流の平坦地で中央を長野堰が流れ、水田灌漑用の水路 . . . 本文を読む
(16)飯塚町(旧塚沢村)
この標識は広い飯塚町の北端、第一病院西側の旧三国街道の通る小さな
信号に掛かっている。江戸期からの上・下飯塚村は明治22年に他の4ヶ村と
共に塚沢村を形成してその大字となるが、「飯塚駅(現北高崎駅)」より南の
字大橋はこの時、高崎町に編入。飯塚の「塚」と「貝沢」の「沢」で塚沢村。
昭和2年塚沢村は高崎に合併して高崎市大字飯塚、次いで昭和26年に
貝沢・江木・岩押・高 . . . 本文を読む
梅雨の真最中、晴間があっても午後の雷雨が危ない。
そこで足慣らしを兼ねての「ジイ散歩」で町名由来を尋ねて市内の探訪。
伝説史跡巡りも双神道祖神も道しるべも一通り終わっているので、テレビ朝日の
「ちい散歩」に対抗して勝手な命名。
種本は「田島武夫著・高崎の町名由来」「田島桂男著・たかさき町知るべ」と
爺イの歴史メモ。
平成の大合併の前の旧市の時代、町の数は158、爺イが高崎に転居した
S-45年時点 . . . 本文を読む
数年来、蟠りの事がある。新田義重の事、余りに各説があつて困る。
義重挙兵の場所は新田ではなく片岡・寺尾と言う事で一応は落ち
ついてはいるが、現存の寺尾中城は南北朝時代の物との判定で
義重の平安末期のものではないとされる。すると、当時は京に在住し
平宗盛騎下となって平家に摺り寄り、都での栄達を画策していた義重が
1180 年の頼朝挙兵後の九月末に平家の源氏討伐の指示を受けたのか、急ぎ
下向して寺尾で . . . 本文を読む
最近はこの墓所を訪れる者が目っきり少なくてワシもすっかり
忘れられたようだ。たが、つい今しがた、白髪の爺イが
久し振りに墓所まで登って来て写真を撮ったら日向で
うつらうつらしていたので長い長い昔話を聞かせてやった。
終ると挨拶も無しにすたこら帰ってしまったんだが、
聞いていたのかな?その話ってのはこうだ。
ワシの祖父は知っての通り、武人の誉れ高い義家様だが、
その晩年は苦労の連続でな、後三年の役 . . . 本文を読む
昨日はインレッドさんの幻想ロマン「蔓梅もどき」を読んで涙ボロボロ。
URLはここ、http://ymanotayori.at.webry.info/200802/article_1.html
それで山に行く気が出たが、今朝の榛名南面の雪を見て「うーん」と唸り
あっさり安直な散策に切り替え。予定はお菊の祠経由熊倉山だったのだが。
今日も箕郷地区をブラブラと一回りして史跡を訪ねる。
(1)龍善寺と . . . 本文を読む
上の写真は極楽院跡の伝説の「さかさ梅」
あれほど盛況を誇った極楽院が何故に忽然と姿を消し、その時期や
理由について記録するものが無いのか?不思議に思いつつも色んな
資料を克明に調べていっても、謂れや最盛期の記述は多数あるが
その終焉に付いての詳細記述は無かった。唯一明治初期の郡村誌・
和田山村の項でたった一行「明治元年十一月廃寺」との記述を発見。
この郡村誌は明治政府が旧幕時代に支配者が変わる毎 . . . 本文を読む
明日は雨か雪との予報なので、先日に引き続いて箕郷地区の史跡と
伝説巡り。先ず前回見逃した業政公菩提寺の長純寺、それと
地図には載ってない伝説の「和田の館跡」と「極楽院跡」を
探すのが目的。
長純寺は鳴沢湖の北方なので車郷小学校脇を通って湖の北側の道を
梅林の方向に進むと直ぐに長純寺の看板。
やがて広大な敷地を有する寺、山の上の梅林まで広がった墓地群。
入り口に奪エバと閻魔様、
遠からず三途の河 . . . 本文を読む
この所、箕輪・長野氏に興味が沸いてきているので関連史跡巡り。
先ずは長野氏初期の居住地と言われる「浜川道場」へ。この名は
ここにある古刹の「金池山来迎寺」の念仏道場があったからとの事。
来迎寺は長野氏子孫の菩提寺らしく墓地は長野さんだらけ。
本堂脇の双神道祖神に見える石像物にちょこんと頭を下げて左に回ると
長野宗家が作った三十数体の墓石群が並ぶ長野氏廟所がある。
説明によると、落城以来 . . . 本文を読む