小雨の降る中、散歩がてらに「高崎まつり」の見物に出かけた。
主会場の広場には既に大勢の見物客、テント張りの屋台の店も密集し
多くのお客を集めている。
中央舞台では子供向けのアトラクション。
今年で35回というが市民の一人としてその経過を少々調べてみた。
明治維新までの高崎の最大の祭りは一月の頼政神社祭礼であつたらしい。
頼政って誰かといえば、似仁王と共に平家討伐の軍を起すも武運つたな . . . 本文を読む
少々、疲れはしたが遺跡の見物に入る。
古代において、信濃国と上野国を結ぶ道は「東山駅路」と云われているが
この道は時代によって何回か道筋が変わっている。
東山道から江戸時代初期に引き継がれた旧中山道が最も有名で坂本から
山手に入る道は既に観光ルート化して熊野神社に向かっており、其の脇に
東山道跡が付かず離れずに見え隠れしている。
碓氷峠から約3K南のこの碓氷バイパスが通過する峠は「入山峠」であり . . . 本文を読む
上の写真は爺イがかって拓本に凝っていた頃、高崎の石碑の路で練習した
万葉の防人の歌、この歌の「碓氷の山」は碓氷峠か ? 入山峠か?という
頭の整理のため、入山峠に係る古代東山道の話を纏める事にしたが、
折角だからブログに載せてしまおう。
今まで「東山道 トウサンドウ」と気軽に言ってきたが東山道には二つの
意味がある事を忘れていた。
遠い昔、「大宝律令」というものがあつた。701年の成立とされるので . . . 本文を読む
吉岡・榛東の三角点探訪の序に「桃井城址」を訪ねた。
この桃井氏、先日の吉井奥平氏と同じで地元でも忘れ去られてしまう
のではないかと心配になるほど。原因は最盛期が南北朝時代で
戦国以前の1440年の結城合戦で滅亡してしまっていることなのか?
1440年頃と言えば「応仁の乱」がその27年後の事であるし
戦国下克上のはしりとなった早雲の茶々丸殺しは未だ50年の先。
鉄砲の伝来など100年先。
尤も城その . . . 本文を読む
吉岡町の三角点探訪の道すがら目に付いた史跡も周った。
但し、序の訪問なので膨大な数の吉岡の史跡からすればごく僅かの
件数に過ぎない。
小出神社
吉岡町に数少ない「水準点」を探していたら小出神社境内にあった。
この地域は「陣場」という。陣場の地名の由来は幾つもあるが
千葉常将がその子・相満丸を巡る船尾山とのいざこざの時の陣場とか
大田道灌が1477年頃に陣を張ったとか。
しかし、小字に「御所 . . . 本文を読む
華蔵寺
野田神社の隣。創建は1519年と伝わり古くからの修験の寺。
この「客殿」は通称で「書院」。かっての物の切り詰め。
池の中に指定重文の「石造弁財天」、この池は上越新幹線トンネル
工事のため枯渇したとかで水はなかつた。
屋根の部分の両面に馬鹿にやさしい鬼面?が刻まれているが
片方は傷みが激しく写真にならず。
野田神社
1504年頃、華蔵寺開山の創建と云われ長年に . . . 本文を読む
(1)奥平神社と廟所
前回、奥平城址まで行きながら見逃した奥平神社を訪問。
R-71・R-200・R-171と繋いで城址を通り越して僅かの先に
自販機が多数設置してある商店、その北側の細道を入ると
目の前に目的の神社。何とも小さくて侘しいもの。
下の写真の中津の奥平神社との落差に唖然とする。
周囲を見渡しても記念碑の類は皆無。
直ぐに仁捜寺跡を再訪。この神社から僅かの距離。
ある . . . 本文を読む
奥平城址
深山から中山へ行く途中で「奥平城址」に寄っている。
R-200を西進し吉井カントリーの少し手前で右への「吉井・安中線」を
右折、直ぐに左への細道に入ると路傍に表示。
城址の表示物はこれだけの呆気なさ。左手に登っても小広場で
行き止まりだが、ここも遺構か? 右手には人工的と思われる
堀のような物も見られる。
左手の竹薮を別けて山に登れば別の遺構もと考えられるが
登路もないので断念。
. . . 本文を読む
リハビリ散策第二弾、今日は安中の古城址探訪。
安中氏が最初に支配したのは松井田だ。それも地元の豪族かと
思ったら越後からの移住者だったのだ。「安中志」に
「出羽守忠親、後に安中出羽守と改、長亨元年(1487)上野国
碓井郡松井田小屋城を建て、越後新発田より引き移るーー」
「上野誌」の記録は「松井田西城に引き移り居住す」
とある。
小屋城は新堀の松井田城安中曲輪の事だし西城とは同じ新堀の
金剛寺辺 . . . 本文を読む
そして瓶尻の戦いから二年後の永禄二年(1559)、信玄は大軍を
率いて二度目の西上州への侵攻。だが、業政に翻弄されて不成功、
遂に「あの爺が生きている限り落城は無理」とぼやくばかり。
そこで中央突破は諦めて業政の手足となる諸将の城を弱そうな
所から順次に攻略し最後に本拠を衝く方針に転換。
そうしている内に永禄四年、業政が亡くなる。遺言として
「-仏事を修するなかれ。子も敵に降るなかれーー」として . . . 本文を読む
天気は良し、気温も高め。恐々ながらリハビリに少し歩き始めた。
ただの散歩では面白くないので史跡探訪の積もりで安中へ。
狙いは安中氏の興亡の筈だったが蛇足の伝説の方が面白くなった。
「八重の淵」がらみである。この八重の淵はかって小幡の
「お菊事件」を追い回していた頃、類似伝承としてここを訪れているが
今回、ここにある碑が医療関係者による建立と聞いて好奇心が
再燃したのだ。
事の成り行き上、三年前の爺 . . . 本文を読む
上の写真は山崎一氏の著書にあつた鷹留城址のもの、何で今頃かと言うと
三角点探訪の時、此処に在る筈の「三角点・根古屋」を未だみつけられて
居ないから。それに城址記録に興味が湧く。退院後、未だリハビリも
始められないので色々と思いを巡らせている。
先ず、長野氏菩提寺の長年寺に残る「長年寺記」から抜粋。
「明応年間(1500)、長野業尚浜川ヨリ徒リ下室田ニ居リ碓井・群馬両郡ヲ領ス。
文亀三年(1503 . . . 本文を読む
今朝早く、「つれづれ」さんの相馬表口ルートの記事で「スゲェー」の一言、
沢沿い林の中の「表口」と彫られた巨大石碑と帰途に「右京の無駄掘り」は見て
貰え無かったようで「うーん 残念」。
こっちは今週の天気も悪いし中盤にはゴルフコンペもあるので山行きは予定無し。
こんな時の爺イの暇潰しは図書館から限度一杯10冊ほど借りてきて
読むこと。今月は北原亜以子と北方謙三だが、余分に借りた萩原進著の
「歴史と風 . . . 本文を読む
天気は快晴、巨人は11連勝、彼岸の墓参りは昨日(22日)に済ませてあるので
条件は揃ったが相変らず足裏の違和感が去らない。何か10円玉が貼り
付いている様な腫れがある。やむを得ず、川場村の石仏見物に出掛けた。
この村は歴史に包まれた自然味豊な山里。平成の大合併にも生き残った
群馬県10ヶ村の一つ。因みにその他は勢多郡・富士見、北群馬郡・榛東、
多野郡・上野、北甘楽郡・南牧、吾妻郡・嬬恋、六合、高山 . . . 本文を読む
(5)西向き道祖神
再び車道に戻って更に北進、正面に愛宕山見えたところで右への小道。
リンゴ畑に突き当る三叉路に大きな道祖神。1848年の作。
(6)愛宕山の百庚申
愛宕山に向かうと分岐、県道脇のリンゴ畑隅に駐車させてもらって山へ。
鳥居前に来ると右手に豪快な文字庚申搭、18世紀中期の片品の書家・藤覧和の
筆によるとか。
鳥居の掲額は「諏訪 武尊」
山上へは48の石段 . . . 本文を読む