2010年1月21日の北海道新聞夕刊、文化面の「季評 美術」で、道立近代美術館主任学芸員の久米淳之さんが、唐牛幸史展 Relation Fieldというのを取り上げていた。
以下、一部を引用する。
筆者はこの展示を見ていない。
こういう展示があること自体は、近くでギャラリーを主宰するMさんから聞いていて、見に行かないかと誘われたが、そのときは時間がなくて、それきりになっていた。
この展示について、どれぐらいの人が知っていたのだろう。
筆者は、それなりに足しげく札幌市内の美術館やギャラリーに行っているつもりだが、この展示に関するポスターや案内はがき、ちらしのたぐいを目にした記憶がない。新聞記事などでも見たおぼえがない。そして、少なくてもこの十数年、この会場が美術展が開かれる場として一般に認知されていたとは、とうていいえないだろう。
もちろん、単に見落としただけかもしれないし、「オレが見てないんだから告知されてないのと同然だろう」と言うつもりもない。
もしかりに、この展示が一般に公開されるというかたちを取っていなかったとしても、そのことで主催者や作家を責める気もない。そのあたりは作家の自由であろうし、一般には非公開でも美術史に残っている催しやパフォーマンスなど、いくらでもあるからだ。
だから久米さんがこの展示を、新聞に載る文章に取り上げたことは、記録として大きな意味があると思う。
ただ、じぶんはこの展示を、見たかったことはもちろん見たかったけれども、見られなかったことはある意味でしかたがないと思っている。
唐牛幸史展が、関係者(インナー)だけに公開されたのだとしたら、じぶんは決してインナーなどではないからだ。
じぶんは、久米さんなどとちがい、単なる美術好きな初老過ぎの男であって、インナーだけが見られるものを見るような立場にはないし、もしそういう機会があったら、それはむしろ僥倖というべきなのだ。
そして、単なる美術好きな初老過ぎの男の視点は、ずっと持ち続けていたい。
以下、一部を引用する。
壁一面に張りめぐらされたメモやスケッチなどは、唐牛が大病した後、人との、特に家族との結ばれ方を、根源的に痛みを伴いながら考察せざるを得なかった、自身の今の生き方をさらけだしたものだ。絵画のほか建物にもさまざまに作品空間として手を入れることで、昭和初期建築の邸宅に宿る時間や歴史の蓄積と、作家の生きてきた時間とが重層的に交錯しているような、美術館やギャラリーでは収めきれない時空間を作り出していた。(引用終わり)
筆者はこの展示を見ていない。
こういう展示があること自体は、近くでギャラリーを主宰するMさんから聞いていて、見に行かないかと誘われたが、そのときは時間がなくて、それきりになっていた。
この展示について、どれぐらいの人が知っていたのだろう。
筆者は、それなりに足しげく札幌市内の美術館やギャラリーに行っているつもりだが、この展示に関するポスターや案内はがき、ちらしのたぐいを目にした記憶がない。新聞記事などでも見たおぼえがない。そして、少なくてもこの十数年、この会場が美術展が開かれる場として一般に認知されていたとは、とうていいえないだろう。
もちろん、単に見落としただけかもしれないし、「オレが見てないんだから告知されてないのと同然だろう」と言うつもりもない。
もしかりに、この展示が一般に公開されるというかたちを取っていなかったとしても、そのことで主催者や作家を責める気もない。そのあたりは作家の自由であろうし、一般には非公開でも美術史に残っている催しやパフォーマンスなど、いくらでもあるからだ。
だから久米さんがこの展示を、新聞に載る文章に取り上げたことは、記録として大きな意味があると思う。
ただ、じぶんはこの展示を、見たかったことはもちろん見たかったけれども、見られなかったことはある意味でしかたがないと思っている。
唐牛幸史展が、関係者(インナー)だけに公開されたのだとしたら、じぶんは決してインナーなどではないからだ。
じぶんは、久米さんなどとちがい、単なる美術好きな初老過ぎの男であって、インナーだけが見られるものを見るような立場にはないし、もしそういう機会があったら、それはむしろ僥倖というべきなのだ。
そして、単なる美術好きな初老過ぎの男の視点は、ずっと持ち続けていたい。