書名からでは分からないと思いますが、近年ますます脚光を浴びているドイツ出身のユダヤ系批評家・思想家ヴァルター・ベンヤミンとその周辺の文学についての批評です。
帯には「小説をどう読むか」と書いてありますが、俎上にのぼっている小説はゲーテ『親和力』ぐらいしかなく、批評や戯曲や詩についての文章が中心なので、これは「文学イコール小説」という無意識の反映によるミスリードでしょう。
とくにページをさいているのが、ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』で、筆者はここで声を大にして言いたいのは
『ドイツ悲劇の根源』を読む前に、この『アレゴリーの織物』を読もう!
ということです。
いや、この本もじゅうぶん難しいので、これを読めば『ドイツ悲劇の根源』もすっきり理解できる、というふうにはとうていまいりません。
ただ『ドイツ悲劇の根源』は先日も書いたとおり、論旨が難解なのはもちろん、そもそも取り上げている近世ドイツの演劇という題材も、アレゴリーという表現形式も、わたしたちにはあまりになじみがないことが、難しさに輪をかけています。
川村さんはそのあたりを、すぱっと解き明かしているわけではないのですが、日本の読者にもなんとか親しみが持てるよう、ベンヤミンがこの本を書くにいたった背景やエピソードなども交えて、何本か補助線を引いてくれており、いくらかはあの本の世界に近づく一助になっているのではないでしょうか。
この文章、これで終わってもいいんですけど、『ドイツ悲劇の根源』が難しいのは日本人だからではなくて、取り上げられている近世ドイツの演劇は、ドイツの文学者にもなじみがないということが、川村さんの本で紹介されています。
リアルタイムでこのベンヤミンの論文を手にした文学研究者は、3度読み直して、わからないとさじを投げたそうです。おれらにわかるわけないやん(苦笑)。
あと、盟友ショーレムにあてた手紙に「この論考の実質的な主役はカルデロンなのだろう」と書いていることも初めて知りました。そりゃないだろ(笑)。ドイツの劇作家はどこにいった。
ただねえ、この本を読んでもけっきょく、なんでこの時代にベンヤミンがアレゴリーを称揚していたのかは、やっぱりいまひとつわからない。現代(メタファの時代)にアレゴリーに脚光を浴びさせる意味、ですよね。
ほかに、ゲオルゲ、ヘルダーリン、アドルノ、ポール・ド・マン、カフカ、リルケらが話題にのぼります。
学術論文のような、いちいち引用を明らかにして、ある狙いに向かって直進していく文章ではなく、いつのまにか話題がうつろっていくエッセーに近い批評なので、読んでいる最中はほんとに楽しかったです。
のちに講談社学術文庫に入ったので、ドイツ文学が好きな方はぜひ。
なお、エッセーに近い批評ということで、本筋と直接関係ないところで、はっとさせられる文章がところどころに入っています。
ツイッターでも引きましたが、ここでも引用しておきます。
とくに、この最後の引用。
考えさせられる。
ここでいったん区切りとします。
帯には「小説をどう読むか」と書いてありますが、俎上にのぼっている小説はゲーテ『親和力』ぐらいしかなく、批評や戯曲や詩についての文章が中心なので、これは「文学イコール小説」という無意識の反映によるミスリードでしょう。
とくにページをさいているのが、ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』で、筆者はここで声を大にして言いたいのは
ということです。
いや、この本もじゅうぶん難しいので、これを読めば『ドイツ悲劇の根源』もすっきり理解できる、というふうにはとうていまいりません。
ただ『ドイツ悲劇の根源』は先日も書いたとおり、論旨が難解なのはもちろん、そもそも取り上げている近世ドイツの演劇という題材も、アレゴリーという表現形式も、わたしたちにはあまりになじみがないことが、難しさに輪をかけています。
川村さんはそのあたりを、すぱっと解き明かしているわけではないのですが、日本の読者にもなんとか親しみが持てるよう、ベンヤミンがこの本を書くにいたった背景やエピソードなども交えて、何本か補助線を引いてくれており、いくらかはあの本の世界に近づく一助になっているのではないでしょうか。
この文章、これで終わってもいいんですけど、『ドイツ悲劇の根源』が難しいのは日本人だからではなくて、取り上げられている近世ドイツの演劇は、ドイツの文学者にもなじみがないということが、川村さんの本で紹介されています。
リアルタイムでこのベンヤミンの論文を手にした文学研究者は、3度読み直して、わからないとさじを投げたそうです。おれらにわかるわけないやん(苦笑)。
あと、盟友ショーレムにあてた手紙に「この論考の実質的な主役はカルデロンなのだろう」と書いていることも初めて知りました。そりゃないだろ(笑)。ドイツの劇作家はどこにいった。
ただねえ、この本を読んでもけっきょく、なんでこの時代にベンヤミンがアレゴリーを称揚していたのかは、やっぱりいまひとつわからない。現代(メタファの時代)にアレゴリーに脚光を浴びさせる意味、ですよね。
ほかに、ゲオルゲ、ヘルダーリン、アドルノ、ポール・ド・マン、カフカ、リルケらが話題にのぼります。
学術論文のような、いちいち引用を明らかにして、ある狙いに向かって直進していく文章ではなく、いつのまにか話題がうつろっていくエッセーに近い批評なので、読んでいる最中はほんとに楽しかったです。
のちに講談社学術文庫に入ったので、ドイツ文学が好きな方はぜひ。
なお、エッセーに近い批評ということで、本筋と直接関係ないところで、はっとさせられる文章がところどころに入っています。
ツイッターでも引きましたが、ここでも引用しておきます。
『パリ―十九世紀の首都』は、「遊民」たちの生活と芸術が、旧市民社会と新しい技術時代のちょうど中間にあって、新しい時代に吸収されて行く運命にあったのを跡づけながら、最終節においてめざましくも喚起的な結語を用意している。芸術の徹底的な商品化が進行する時代の趨勢の中で、趨勢に身を委ね切ることのできぬためらいが認められるとベンヤミンは言い、結論的にこう述べる。≪小路、室内、博覧会場、パノラマ、これらはすべて、そのためらいの時代の産物である。それらは、一つの夢の世界の残存物なのだ。
失われた統一をただ嘆くのではなく、言語の力によって統一を回復せしめようというのが、多くの詩人たち、特に近代のロマン主義的な詩人たちの願望にはちがいない。
心のこもらない単なる形に堕しているといって、結婚式や葬式には一切顔を出さない人間は、変人扱いされるのを免れない。大抵は、めでたいとも思わずにおめでとうと言い、来世を信じもしないで冥福を祈ると言うのである。世間のしきたりに従っているといえばそれまでだが、しかし、しきたりはなぜ廃れないのか。むきだしの真実、裸の心を常時突きつけられては気づまりで生きにくい、安穏に生きて行くためには形式という嘘が必要だと、誰もが暗黙のうちに諒解しているからである。
とくに、この最後の引用。
考えさせられる。
ここでいったん区切りとします。