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生誕100年・没後45年記念展「魂の画家 寺島春雄の世界」(10月29日~11月23日、帯広)

2011年11月15日 21時15分08秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 寺島春雄(1911~66)は、けっして全国、全道的な知名度は高くないが、十勝の美術史には大きく刻まれている画家である。
 生まれは旭川だが、帯広住まいが長かった。

 作品もさることながら、結核を押して抽象画、前衛的な絵画を描き続けたその姿勢が多くの後進をひきつけ、十勝・帯広の美術を盛んにした功績は大きいようなのだ。

 今回は、会場の十勝百年記念館が所蔵する作品を中心に、寺島の油彩53点と、彼を取り巻く8人(園田郁夫、熊代弘法、大戸秀夫、山本時市、米山将治、神田日勝、葛西新一、武田伸一)の作品を1点ずつ展示している。
 このうち7人は、9月まで道立帯広美術館で開かれていた「十勝の美術クロニクル」展にも登場していたが、山本氏は初見。1922年釧路生まれ、88年函館で歿したらしい。


 さきほど、「さることながら」と書いたのは、あるいは失礼な形容かもしれない。
 ただ、筆者は2002年に道立帯広美術館で寺島の回顧展を見たとき、とくに初期の具象画については、人物表現に厚みと立体感を欠いていることにどうしてもなじめなかった。
 専門的な美術教育を受けず、対象を、空間の中でとらえることが不得手だったのではないか、という感想は、今回見てもあまり変わらなかった。

 あるいは、空間の把握が不十分だったがゆえに、奥行き感を排したところで展開される抽象絵画の制作には、むしろ有利に働いたという部分はあるかもしれない。
 寺島が戦後、独立美術に出品していた100号クラスの作は、流氷原や雪原を真上から見た航空写真のような、オールオーバーな画面のものが多い。
 そこでは、それぞれのモティーフの存在感のようなものは必要なく、全体的な構図と、強靭なマティエールが、作品を成立させているのである。
 さらにいえば、詩的な題も、一役買っていたのかもしれない。

 そして、病気にもかかわらず制作にまい進するその姿が、多くの後輩たちを勇気付けたという点は大きいのだろう。
 筆者が会場にいたときは、ちょうどギャラリートークの最中で、いくつかエピソードを耳にすることができた。

 たとえば「柵と人」(1957年)。
 当時の評論などでは
「互いに分断され、疎外される現代人の姿」
と解説されていそうな感じの絵だが、これは後の神田日勝に影響を与えたのではないかと―とのことだった。

 また、話者である、十勝百年記念館の前館長によると、寺島は若い人によく
「どんなに貧乏でも、心まで貧しくなるな。いい音楽を聴け、文学を読め、芝居を見ろ」
と助言し、心豊かな人生をおくるよう周囲に言っていたという。

 抽象画に取り組んでいた寺島の絶筆「バラ一輪」。
 最後の最後に静物画というのも意外だが、寺島の自宅のイーゼルに最後まで置かれ、長いこと加筆を続けていた絵だという。
 会場にいらした、十勝の現代アート界の長老である米山将治さんによれば、昭和32年にアトリエで見たときには、花が5輪描かれており、寺島本人から
「米山君、花はいくつがいい?」
と尋ねられた由だ。
 米山さんは
「遺作だとしたら1輪がよいでしょう」
とこたえたという。

 寺島の歿する直前、周囲の人々の尽力により市民会館で個展が開かれ、大戸秀夫さんが購入。
 いまも大戸さんの所蔵である。

 さらに、2002年の個展でも最後に飾られていた、最晩年の「無題」。
 棺に納められた人物を前に、黒い人物?がチェロを弾いているという重苦しい作品で、全道展でも遺作として陳列されたという。
 これもギャラリートークで聞いた話だが、寺島はチェロが好きで、彼の行きつけの音楽喫茶ウイーンから、チェロが載っているレコードのジャケットを借りていったことがあるという。

 前館長の話か米山さんの言か、忘れたけれど、移住してきた能勢眞美を中心に戦後再編された帯広画壇に対し、道展、日展系を中心としたその流れにあきたらない若者たちの梁山泊となったのが寺島春雄の画室ではないのか、ということだった。


 9月まで道立帯広美術館で開かれていた「十勝の美術クロニクル」展の図録から略年譜をひいておく。一部の記述を省略した。

 7歳で釧路に移り、釧路中学を中退後、臨港鉄道に勤めるが、脊椎カリエスを患う。1932(昭和7)年、第8回道展に「荷扱所風景」が初入選。その後もフローレンス賞を受賞するなど、入選を重ねる。また、独立展にも出品。1944(昭和19)年、結核で国立帯広療養所に入所。十勝会館や帯広千秋庵など、市内で個展開催。1946年、第1回全道展に招待出品。1956年、新道展創立会員となる。初期の素朴味のある具象から、一時の激しい色使いを経て、重厚で堅牢な色彩による抽象表現へと画風を展開した。病を抱えながらも周囲に人が集まり、後進への影響力は大きかった。


 帯広千秋庵は現在の六花亭だろう。

 出品作は次のとおり。

自画像 F3(1950)
登校 F60(1936)
標識燈 F60(1940)
漁灯と少年 F60(1940)
土器と少年 F50(1942)
牧馬と子供 F80(1941)
静物  P10(1954)
嘴   F3(1954)
漁燈  F10(1955)
標識  F20(1955)
工事現場 P40(1956)
エントツと太陽 F20(1958)
少女  F6(不詳)
石工  P15(1958)
柵   P30(1957)
柵   P80(1955)
柵と人 F100(1957)
柵   F50(1958)
柵(青) F100(1958)
柵(赤) F80(不詳)
柵   P20(1958)
原野の伝説 F100(1960)
(無題) F100(1961)
作品  P20(1960)
赤の供物 F15(1959)
作品(赤) F8(1961)
白の遺跡 F100(1960)
囚人の碑 F100(1961)
囚人の詩 F100(1962)
作品赤  F50(1962)
北の霊詩 P20(1961)
北の遺跡 F100(1960)
黒の狂奏 F100(1962)
青の流亡記 F100(1963)
雷雨   F100(1960)
墟恨の碑 F100(1963)
北の詩  F10(1963)
風化   P15(1960)
作品   P30(1963)
無言詩  F100(1963)
赤の饗宴 F10(1961)
作品   F8(1963)
眼のある碑 F10(1963)
鳥    F50(1962)
黒い狂奏 F20(1962)
黒い日蝕 F12(不詳)
棟土帯


2011年10月29日(土)~11月23日(水)9:00~5:00
帯広百年記念館(帯広市 緑ケ丘公園)


寺島春雄展(2002年、道立帯広美術館、画像なし)
坂野コレクション巡回展 北海道― 花、人、自然(2001年、画像なし)



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