けさ(2011年9月13日)の北海道新聞「おくやみ」面に池本良三さんの訃報が載っていました。8日死去、80歳。葬儀はすでに終了しています。
早々と情報をくださった「根保孝栄・石塚邦男」さん、ありがとうございました。
池本さんは全道展会員で、苫小牧在住。
1990年に会員に昇格しています。
全道展には、楽器を演奏する人々の姿を並べた、かっちりした構図の絵を出品していた印象が強いです。
2005年には、夕張の国際ファンタスティック映画祭のポスターも手がけており、映画祭のサイトに略歴が載っているので、引用します。
静内町は、現在の日高管内新ひだか町です。
池本さんは造形教育の分野でも活躍されていましたが、筆者が会ったときにはすでに学校を退職されていて、名刺には
自由人
とありました。
そして、かつてジャズベーシストであったことから、自分が描く演奏の絵がいかにリアルであるかを、トランペットを吹く人の身ぶりをまじえて力説していました。
筆者は、そのとき、口には出しませんでしたが
「ははあ、遠藤ミマンさんの絵に対抗意識があるのかなあ」
と内心で考えていました。
遠藤さんは戦後長く、苫小牧画壇の中心的存在だった画家です。2004年に亡くなりました。
そして、90年代後半は「ジャズ」と題する絵を多く発表していました。
確かに、ドラムの配置や管楽器の演奏スタイルなどは、ミュージシャンだった池本さんの方に一日の長があったことは確かです。
ただ、ほんとうに池本さんが遠藤さんのことを敬遠しているのであれば、池本さんは苫小牧美術協会の事務局長を務めたりしないわけで、ただおもしろがって言っていただけなのだろうと思います。
(ミマンさんの場合は、題名からいっても、マティスを意識していたのはまちがいないです)
学生時代については、ブリキの作品などで知られるポップアーティスト秋山祐徳太子さんが書いた「泡沫桀人列伝 知られざる超前衛」(ニ玄社 1500円)という本の中で紹介されています(参考:■アートな本棚)。
(この本は、古今東西の美術の本の中でも、最も笑える本です。おすすめ)
北海道から来たので「マサカリでクマを退治した」という伝説があったことや、砂川基地闘争、警職法闘争、安保闘争と、自治会活動で忙しかったことを振り返っています(1950年代後半から60年あたりは学生運動が最も盛んだった時期です)。
また、苫小牧民報のサイトによると、池本さんは、ドリフターズの故いかりや長介さんとも交流があり、いかりやさんの代役でベースを演奏したこともあったそうです。
(ドリフターズは「お笑い」で人気者になりましたが、もともとはバンドです。ビートルズ来日公演のさいに前座を務めたのは有名)
さらに1993年には、苫小牧東港の、中央ふ頭と苫東コールセンターを結ぶ臨港道路沿いのコンクリート護岸に、高さ4.5メートル、幅50メートルという巨大な壁画を、知人の伊藤秀雄さんと共同で描いたそうです。
これは、まだ残っているのでしょうか。
ご冥福をお祈りいたします。
早々と情報をくださった「根保孝栄・石塚邦男」さん、ありがとうございました。
池本さんは全道展会員で、苫小牧在住。
1990年に会員に昇格しています。
全道展には、楽器を演奏する人々の姿を並べた、かっちりした構図の絵を出品していた印象が強いです。
2005年には、夕張の国際ファンタスティック映画祭のポスターも手がけており、映画祭のサイトに略歴が載っているので、引用します。
1931年北海道静内町生まれ。武蔵野美術学校(現武蔵野美大)卒業。小、中学校美術教師40年
1963年 全道展、国画会展(78年まで)出品、全道美術協会会員。
学生時代からプロのベースマンとして4年間芸能界ですごした関係で、絵のテーマは、音楽・リズムを中心とした制作を展開。造形教育関係では、幼稚園、小中高短大への講演、講習など道内外で200回を超える。
静内町は、現在の日高管内新ひだか町です。
池本さんは造形教育の分野でも活躍されていましたが、筆者が会ったときにはすでに学校を退職されていて、名刺には
自由人
とありました。
そして、かつてジャズベーシストであったことから、自分が描く演奏の絵がいかにリアルであるかを、トランペットを吹く人の身ぶりをまじえて力説していました。
筆者は、そのとき、口には出しませんでしたが
「ははあ、遠藤ミマンさんの絵に対抗意識があるのかなあ」
と内心で考えていました。
遠藤さんは戦後長く、苫小牧画壇の中心的存在だった画家です。2004年に亡くなりました。
そして、90年代後半は「ジャズ」と題する絵を多く発表していました。
確かに、ドラムの配置や管楽器の演奏スタイルなどは、ミュージシャンだった池本さんの方に一日の長があったことは確かです。
ただ、ほんとうに池本さんが遠藤さんのことを敬遠しているのであれば、池本さんは苫小牧美術協会の事務局長を務めたりしないわけで、ただおもしろがって言っていただけなのだろうと思います。
(ミマンさんの場合は、題名からいっても、マティスを意識していたのはまちがいないです)
学生時代については、ブリキの作品などで知られるポップアーティスト秋山祐徳太子さんが書いた「泡沫桀人列伝 知られざる超前衛」(ニ玄社 1500円)という本の中で紹介されています(参考:■アートな本棚)。
(この本は、古今東西の美術の本の中でも、最も笑える本です。おすすめ)
北海道から来たので「マサカリでクマを退治した」という伝説があったことや、砂川基地闘争、警職法闘争、安保闘争と、自治会活動で忙しかったことを振り返っています(1950年代後半から60年あたりは学生運動が最も盛んだった時期です)。
また、苫小牧民報のサイトによると、池本さんは、ドリフターズの故いかりや長介さんとも交流があり、いかりやさんの代役でベースを演奏したこともあったそうです。
(ドリフターズは「お笑い」で人気者になりましたが、もともとはバンドです。ビートルズ来日公演のさいに前座を務めたのは有名)
さらに1993年には、苫小牧東港の、中央ふ頭と苫東コールセンターを結ぶ臨港道路沿いのコンクリート護岸に、高さ4.5メートル、幅50メートルという巨大な壁画を、知人の伊藤秀雄さんと共同で描いたそうです。
これは、まだ残っているのでしょうか。
ご冥福をお祈りいたします。
苫小牧の月刊ミニコミ誌臨海春秋」に根保孝栄のなで長編小説を連載しましたのは30年前のことでしたが、3年間挿絵を担当していただき、良きいい思い出でした。二年ほど間をおいて、また長編小説の挿絵をしていただき、二人は名コンビと言われたものです。数年前には苫小牧民報の連載小説の挿絵を指名しまして担当していただきました。遠藤ミマンさんは、池本さんのライバルというより、恩師です。
追分に居た池本さんの造形教育の手腕を買って苫小牧に呼んだのです。ですから、ミマンさんを終生の恩人と言ってました。
池本さんとはもう少しお話をしたかったと思います。もうかなわないことで、残念でなりません。
苫小牧は、ミマンさんをはじめ、いろいろな方が鬼籍に入られ、さびしくなりますね。
私は、中学時代に池本先生の授業を受けています。
授業の中でもいつでも私に美術の道を進めてくれました。
随分前ですが、私が作家活動していることを知って本当に喜んでくれたことが思い出されます。
学生時代のこと。ドリフターズのこと。自分の作品のこと。
自由人になったこと。など、時間を忘れてお話していただいたことが、懐かしく、そして寂しく感じています。
全道展でもまず先生の作品を探してしまうことが、私の全道展の順路ともなっていました。
近年お会いする機会は多くはありませんでしたが、いつも笑顔で迎えてくれた姿が目に焼き付いています。
先生の足跡を改めて拝見できたこと、うれしく思います。
ありがとうございます。
池本さんのお人柄がしのばれる、すてきな文章です。
中学時代に授業を受けたのですか…。それはショックですね。
あらためて、ご冥福をお祈りしたいと思います。
池本さんは、室中で福井正治さんと一緒で、福井さんに刺激されて、晩学で30歳になって武蔵美大に入り直した方。裕徳太子さんと自治会活動をして学生運動をやった方で、情熱家でした。
私が苫小牧民報の記者時代、美術批評やっていた関係で美美庵の多田襄さんと三人つるんでよく飲み歩き芸術論争したものです。喧嘩もよくしました。
若い頃は国画会で福井さんと競ったものでした。
ミマンさん、福井さん、多田さん、そして池本さん皆故人となって寂しいです。
「絵描き」(うまくいえないけど「美術作家」「アーティスト」とはメンタリティが違うような気がします)が亡くなっていくのは残念でなりません。
一週間一回金曜版小説として18枚を1 0段全ページにして2カット付きでした。36回連載ですから、9ヶ月掛かりましたね。良い思い出でした。1カットが絵になってましたね。福井さんは若い頃、檀一雄のところで書生やってて小説家になりたいとしていた時期があったようです。