(長文です)
人は、或る時代の絵画は、おなじ時代の身近な現実を描いていると思いがちである。しかし、先入観を排して、日々ギャラリーや美術館で展示されている絵画-この場合は写実的な絵画-を眺めると、題材が非常に限定されていることに気づくだろう。
つまり、その多くは、自然の多い風景だったり、花瓶に盛られた花だったり、室内でポーズをとる女性だったりする。
もちろん、近代絵画においては、モティーフは単なる「素材」みたいなものであって、「いかに」描くかがカギなのだ-という言い方は一定の説得力がある。とはいえ、オフィスで働くビジネスマンも駅でケータイをいじる若い女性もゴルフや釣りに興じるおじさんも都市のなにげない風景もまったく描かれない現状っていったいなんなんだろう…、と考えてしまうのだ。具象絵画は、わたしたちをとりまく「現実」をまったくと言っていいほど反映していない。文学も音楽も演劇も、わたしたちをとりまく現実から超然とした表現ばかりではないだろう。
はたしてこれでいいのだろうか。
筆者は山下さんのことをまったく存じ上げない。
仄聞(そくぶん)するに、北大黒百合会で絵を描いていた方らしい。
今回の個展で発表しているのは、すべて水彩画で計22点。東京、札幌の風景と、室内にいる人物を、非常に細かい筆使いで描いている。
描法はとても丹念なのに、紙は、額からはずしたような跡があるものと、スケッチブックを破ったものとで、このあたりのラフさかげんとおもしろい対照をなしている。
一見して驚いたことの第一点は、ふつうであればまず絵にしないであろう風景がえらばれていることである。
たとえば「王子」。近景に電車の線路、中景に家々や道路がひしめき、遠景には高層住宅が無秩序に並ぶさまが描かれている。
これは、東京に住んでいる人が日々目にしている風景である。日本の大都市の醜悪さを、とくべつに代表しているというほどでもない。
しかし、こういう風景が絵画作品の題材になることは、一般的にはまったくといっていいほどない。絵を描く人は、意識的に、あるいは無意識のうちに「絵になる風景」をさがしている。だから、札幌のギャラリーには、道庁赤レンガや北大第二農場、積丹の神威岬、小樽運河といった絵ばかりが展示されることになるのだ。作者の意図がどうあれ、山下さんの絵が、都市に住みながらも捨象し、「なかったことにしている」風景を取り上げることで、現代の絵画に一石を投じる結果になっていることは間違いない。
植木屋さんの脚立を真横から描いた「六義園」、緑でも美術館でもない交叉点の風景を題材にした「上野」も、「ふつうはこんなところ、絵にしようと考えないよなあ」という作品だ。
また「留学生」は、事務所でパソコンに向かう西洋人女性を描いたもの。背後には、イヤホンをした女性の後ろ姿や、雑然と積まれた書類も見える。パソコンにさし込んだUSBのマークまでが描き込まれているのは、この作者ならではの細かさだ。
現代の労働の現場は、あちこちで繰り広げられている光景なのにもかかわらず、めったに画題にならない。プロレタリア絵画がどうの、という議論以前の問題として、もっと絵になっていいと思う題材なのだ。
もうひとつ、考えさせられたのは、「リアルって何だ?」ということ。
「ナイ・ポー」は、苗穂駅と、隣接するJRの鉄道工場を俯瞰気味に描いた作品。他の作品と同様にタッチはきわめて細かい。苗穂の駅舎、工場に残るターンテーブル、扇形に広がる線路などが、精密に描写されている。
だが、地平線が大きく左に下がっており、よほどの広角レンズでも使わないかぎり、現実の風景がこのように見えることはないだろう。周辺の高層建築物なども適宜省略されているようだ。さらに、地面のバラストが不自然に大きいという指摘もできよう。
なのに、この絵から受ける印象は、まず「リアルだなあ」というものなのだ。
すくなくても筆者は、こういう水彩画を見ても、カラヴァッジョの絵を見ても、写真を見ても「リアル」と感じる。明暗の処理などは、相当違っているはずなのに、だ。ここらへんの脳のメカニズムって、どうなってるのだろう。
ちなみに、山下さんの画力はかなりのもので、「五月・東京」では、女性が寝ころんで読んでいる本のカバー見返しにある小さな肖像写真からこの本の筆者が手嶋龍一氏であることが推察できるほどだ。
また、「画学生」で、描かれている人が読んでいるのは、岩波文庫のユーゴー作「レ・ミゼラブル」であろう。
「ナイ・ポー」の近くにならんでいる「ウコツ・シリネイ」も不思議な絵だ。
現在は複雑な立体交差になっている石山陸橋を描いたと思われる。
車は描かれていない。遠くの採石場はきちんと描写されているのに、家が建ち並んでいるはずの豊平川沿いの谷間は、木々で覆い尽くされているのだ。
アイヌ語つながりで言えば、豊平の旧称を題にした「トウイ・ピラ」は、濁った川の奔流とコンクリート護岸を描いており、画面からは札幌の豊平川をしのばせるものはまったくうかがえない。
非常に興味深い個展であった。
出品作は次の通り。
ナイ・ポー
山鼻インカルシペ(「インカルシペ」は鏡文字)
七カマド
ウコツ・シリネイ
トウイ・ピラ
看護士の休日
五月・札幌
上野
浅草
六義園
豊島橋
小石川植物園
王子
留学生
研究生
五月・東京
画学生
ライブ
夫
石神井川と音無橋
墨田左岸の鳩
山の手の小学校
2008年11月10日(月)-15日(土)10:00-18:00(最終日-17:00)
札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3 地図A)
人は、或る時代の絵画は、おなじ時代の身近な現実を描いていると思いがちである。しかし、先入観を排して、日々ギャラリーや美術館で展示されている絵画-この場合は写実的な絵画-を眺めると、題材が非常に限定されていることに気づくだろう。
つまり、その多くは、自然の多い風景だったり、花瓶に盛られた花だったり、室内でポーズをとる女性だったりする。
もちろん、近代絵画においては、モティーフは単なる「素材」みたいなものであって、「いかに」描くかがカギなのだ-という言い方は一定の説得力がある。とはいえ、オフィスで働くビジネスマンも駅でケータイをいじる若い女性もゴルフや釣りに興じるおじさんも都市のなにげない風景もまったく描かれない現状っていったいなんなんだろう…、と考えてしまうのだ。具象絵画は、わたしたちをとりまく「現実」をまったくと言っていいほど反映していない。文学も音楽も演劇も、わたしたちをとりまく現実から超然とした表現ばかりではないだろう。
はたしてこれでいいのだろうか。
筆者は山下さんのことをまったく存じ上げない。
仄聞(そくぶん)するに、北大黒百合会で絵を描いていた方らしい。
今回の個展で発表しているのは、すべて水彩画で計22点。東京、札幌の風景と、室内にいる人物を、非常に細かい筆使いで描いている。
描法はとても丹念なのに、紙は、額からはずしたような跡があるものと、スケッチブックを破ったものとで、このあたりのラフさかげんとおもしろい対照をなしている。
一見して驚いたことの第一点は、ふつうであればまず絵にしないであろう風景がえらばれていることである。
たとえば「王子」。近景に電車の線路、中景に家々や道路がひしめき、遠景には高層住宅が無秩序に並ぶさまが描かれている。
これは、東京に住んでいる人が日々目にしている風景である。日本の大都市の醜悪さを、とくべつに代表しているというほどでもない。
しかし、こういう風景が絵画作品の題材になることは、一般的にはまったくといっていいほどない。絵を描く人は、意識的に、あるいは無意識のうちに「絵になる風景」をさがしている。だから、札幌のギャラリーには、道庁赤レンガや北大第二農場、積丹の神威岬、小樽運河といった絵ばかりが展示されることになるのだ。作者の意図がどうあれ、山下さんの絵が、都市に住みながらも捨象し、「なかったことにしている」風景を取り上げることで、現代の絵画に一石を投じる結果になっていることは間違いない。
植木屋さんの脚立を真横から描いた「六義園」、緑でも美術館でもない交叉点の風景を題材にした「上野」も、「ふつうはこんなところ、絵にしようと考えないよなあ」という作品だ。
また「留学生」は、事務所でパソコンに向かう西洋人女性を描いたもの。背後には、イヤホンをした女性の後ろ姿や、雑然と積まれた書類も見える。パソコンにさし込んだUSBのマークまでが描き込まれているのは、この作者ならではの細かさだ。
現代の労働の現場は、あちこちで繰り広げられている光景なのにもかかわらず、めったに画題にならない。プロレタリア絵画がどうの、という議論以前の問題として、もっと絵になっていいと思う題材なのだ。
もうひとつ、考えさせられたのは、「リアルって何だ?」ということ。
「ナイ・ポー」は、苗穂駅と、隣接するJRの鉄道工場を俯瞰気味に描いた作品。他の作品と同様にタッチはきわめて細かい。苗穂の駅舎、工場に残るターンテーブル、扇形に広がる線路などが、精密に描写されている。
だが、地平線が大きく左に下がっており、よほどの広角レンズでも使わないかぎり、現実の風景がこのように見えることはないだろう。周辺の高層建築物なども適宜省略されているようだ。さらに、地面のバラストが不自然に大きいという指摘もできよう。
なのに、この絵から受ける印象は、まず「リアルだなあ」というものなのだ。
すくなくても筆者は、こういう水彩画を見ても、カラヴァッジョの絵を見ても、写真を見ても「リアル」と感じる。明暗の処理などは、相当違っているはずなのに、だ。ここらへんの脳のメカニズムって、どうなってるのだろう。
ちなみに、山下さんの画力はかなりのもので、「五月・東京」では、女性が寝ころんで読んでいる本のカバー見返しにある小さな肖像写真からこの本の筆者が手嶋龍一氏であることが推察できるほどだ。
また、「画学生」で、描かれている人が読んでいるのは、岩波文庫のユーゴー作「レ・ミゼラブル」であろう。
「ナイ・ポー」の近くにならんでいる「ウコツ・シリネイ」も不思議な絵だ。
現在は複雑な立体交差になっている石山陸橋を描いたと思われる。
車は描かれていない。遠くの採石場はきちんと描写されているのに、家が建ち並んでいるはずの豊平川沿いの谷間は、木々で覆い尽くされているのだ。
アイヌ語つながりで言えば、豊平の旧称を題にした「トウイ・ピラ」は、濁った川の奔流とコンクリート護岸を描いており、画面からは札幌の豊平川をしのばせるものはまったくうかがえない。
非常に興味深い個展であった。
出品作は次の通り。
ナイ・ポー
山鼻インカルシペ(「インカルシペ」は鏡文字)
七カマド
ウコツ・シリネイ
トウイ・ピラ
看護士の休日
五月・札幌
上野
浅草
六義園
豊島橋
小石川植物園
王子
留学生
研究生
五月・東京
画学生
ライブ
夫
石神井川と音無橋
墨田左岸の鳩
山の手の小学校
2008年11月10日(月)-15日(土)10:00-18:00(最終日-17:00)
札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3 地図A)
あの、微妙なリアル感、「画」って何だろうと考えさせられる所もありました。
もの凄くどういう人なのかも、気になります。
だいたい、見る前から、いい展覧会かどうかは予想がついている場合が多いのだけれど、こういうふうに「良い意味で予想を裏切る展覧会」というのが時々あるので、ギャラリーまわりはやめられないのだと思います。