札幌の若手画家、小田容子さんと、彼女の絵を扱っているアートショップ「華あぐら」のジョイント展。
筆者が行ったのは最終日でしたが、彼女の絵は50点ほども展示されていました。小品ばかりとはいえ、おそらく売れて会場からなくなったのもあるでしょうから、すごいと思います。
小田さんの絵は、ちょっとヘンです。もちろん、筆者は肯定的な意味をこめて「ヘン」と言っているのですが。
(以下、長文です。でも、じぶんでいうのもなんですが、面白いはずなので、よかったらご一読を)
そのヘンな絵のなかに「オドラデク」というのがありました。
もちろん、カフカの短編小説に由来するのだと思います。
カフカの掌編「父の心配」で、オドラデク(この訳本では「オドラデック」)は、上記のように描写されています。小田さんの絵は、或る意味、写実的というか、小説のとおりといえそうです。
しかし、いくら外観をくわしく説明されても、このオドラデクが要するに何者なのかは、小説を読んでもさっぱりわからないのです。なにか小動物みたいですが、人間と会話ができるようです。
そして、この掌編の語り手である「わたし」は
と、日本語訳の文庫本にしてわずか2ページあまりの短い小説を締めくくっているのです。こんな「小動物」が生き残ることがなぜ苦痛なのか、なにも説明はありません。
カフカの小説を語る際にはよく「不条理」ということばがもちいられ、さまざまな作家や評論家が難解な批評を展開してきました。ですが、筆者にいわせれば、カフカの小説は、ようするに
「ヘン」
なのです。
もちろん、「ヘン」さ加減には濃淡があって、「ある流刑地の話」「変身」のように、あからさまにヘンなものから、初期長編「アメリカ」など、なにかすこしヘンなんだけれど、そのヘンさをほかの人に説明しようとするとどうもうまくいきそうにないものまで、いろいろあるわけですが。
ただ、破天荒なSFやイマジネーションあふれる幻想小説とちがって、作家が
「どうだ、いかにもヘンだろう」
という世界を繰り広げている小説ではないのです。ことによったら、カフカ自身もその「ヘン」さを自覚していない可能性があります。とはいえ、「天然」とも違うわけで、やはりそれぞれの作品には、カフカの苦悩や、或る種の「いたたまれなさ」が折りたたまれているのでしょう。
一見関係のなさそうな話が長くなってしまい、恐縮なのですが、その「ヘン」さ加減は、小田さんの絵に、なにか共通しているような気がするのです。
林の中の建物を描いた「宿舎」にせよ、部屋の中に雲が湧き黄色い雨がふる「ロマンチストわびさび」にせよ、題名のとおりに不動産広告のような「アパートの間取り」にせよ、小田さんの絵はほかの人の絵とはかなり違っています。
じゃあ、どこが違うかを順序だてて語ろうとすると、これがむつかしい。カフカの場合と似ていて、小田さんの絵は、いかにも特殊な技法を用いているとか、突飛なかたちをしているとか、シュルレアリスムの極致で奇妙なモティーフが頻出するとか、そのように「ヘン」な絵ではないからです。
かつて小田さんは、maniさんたちといっしょに「room of the head 」というグループ展を何度もひらいていました(そういえば、maniさんもヘンな絵を描きます)。
そこで小田さんは不気味な立体を出品していたことがありました。
カフカといえば、精神分析とのシンクロ率が高いのですが、小田さんの作品にも、人間の意識と意識の裂け目にひそんでいるなにかが噴出しているようにも思えます。
そこらへんは、筆者ももっとフロイトのテキストを読むなりして勉強しようと思います。
ただ、それに頼りすぎると、いかにもむつかしい現代思想になってしまいますから、ようするにヘンの原点(←なんの原点なんだか)に戻って、また楽しく小田さんの絵を見ることができる機会を待ちたいと考えています。
小田さんには、ヘン、ヘン言って申し訳ないと思います。
でも、芸術にとって、ノーマルであるとか、他の人大勢と似ているというのは、まったく褒め言葉ではないと思うのです。
ヘンなのは、よいことなのではないでしょうか。
08年2月13日(水)-20日(水)10:00-20:30(最終日-19:00)
4プラホール(中央区南1西4 4丁目プラザ7階 地図B)
□華AGRA http://www.hanaagra.com/
筆者が行ったのは最終日でしたが、彼女の絵は50点ほども展示されていました。小品ばかりとはいえ、おそらく売れて会場からなくなったのもあるでしょうから、すごいと思います。
小田さんの絵は、ちょっとヘンです。もちろん、筆者は肯定的な意味をこめて「ヘン」と言っているのですが。
(以下、長文です。でも、じぶんでいうのもなんですが、面白いはずなので、よかったらご一読を)
そのヘンな絵のなかに「オドラデク」というのがありました。
もちろん、カフカの短編小説に由来するのだと思います。
平べったっくて星形の糸巻みたいな格好をしていて、またほんとうに糸が巻いてあるらしいのだ、ただしそれは、ぼろぼろの使いふるしで、結び目だらけであり、むやみにもつれあった、各種各様の種類と色の糸のかたまり、と考えてもいいであろう。しかしそれはただの糸巻きではなく、星のまんなかのところから、小さな横棒が一本突き出ていて、この棒と直角にもう一本、棒がくっついている。このあとのほうの棒と、星のまわりのぎざぎざとが、ちょうど二本の脚のような役目をして、全体がこの脚のうえに立っているのである。(角川文庫「ある流刑地の話」108ページ。本野亮一訳)
カフカの掌編「父の心配」で、オドラデク(この訳本では「オドラデック」)は、上記のように描写されています。小田さんの絵は、或る意味、写実的というか、小説のとおりといえそうです。
しかし、いくら外観をくわしく説明されても、このオドラデクが要するに何者なのかは、小説を読んでもさっぱりわからないのです。なにか小動物みたいですが、人間と会話ができるようです。
そして、この掌編の語り手である「わたし」は
あれがわたしの死後もやはりそんなふうにして生き残っていかねばならぬのかと思うと、一種の苦痛にちかい感情におそわれるのだ。
と、日本語訳の文庫本にしてわずか2ページあまりの短い小説を締めくくっているのです。こんな「小動物」が生き残ることがなぜ苦痛なのか、なにも説明はありません。
カフカの小説を語る際にはよく「不条理」ということばがもちいられ、さまざまな作家や評論家が難解な批評を展開してきました。ですが、筆者にいわせれば、カフカの小説は、ようするに
「ヘン」
なのです。
もちろん、「ヘン」さ加減には濃淡があって、「ある流刑地の話」「変身」のように、あからさまにヘンなものから、初期長編「アメリカ」など、なにかすこしヘンなんだけれど、そのヘンさをほかの人に説明しようとするとどうもうまくいきそうにないものまで、いろいろあるわけですが。
ただ、破天荒なSFやイマジネーションあふれる幻想小説とちがって、作家が
「どうだ、いかにもヘンだろう」
という世界を繰り広げている小説ではないのです。ことによったら、カフカ自身もその「ヘン」さを自覚していない可能性があります。とはいえ、「天然」とも違うわけで、やはりそれぞれの作品には、カフカの苦悩や、或る種の「いたたまれなさ」が折りたたまれているのでしょう。
一見関係のなさそうな話が長くなってしまい、恐縮なのですが、その「ヘン」さ加減は、小田さんの絵に、なにか共通しているような気がするのです。
林の中の建物を描いた「宿舎」にせよ、部屋の中に雲が湧き黄色い雨がふる「ロマンチストわびさび」にせよ、題名のとおりに不動産広告のような「アパートの間取り」にせよ、小田さんの絵はほかの人の絵とはかなり違っています。
じゃあ、どこが違うかを順序だてて語ろうとすると、これがむつかしい。カフカの場合と似ていて、小田さんの絵は、いかにも特殊な技法を用いているとか、突飛なかたちをしているとか、シュルレアリスムの極致で奇妙なモティーフが頻出するとか、そのように「ヘン」な絵ではないからです。
かつて小田さんは、maniさんたちといっしょに「room of the head 」というグループ展を何度もひらいていました(そういえば、maniさんもヘンな絵を描きます)。
そこで小田さんは不気味な立体を出品していたことがありました。
カフカといえば、精神分析とのシンクロ率が高いのですが、小田さんの作品にも、人間の意識と意識の裂け目にひそんでいるなにかが噴出しているようにも思えます。
そこらへんは、筆者ももっとフロイトのテキストを読むなりして勉強しようと思います。
ただ、それに頼りすぎると、いかにもむつかしい現代思想になってしまいますから、ようするにヘンの原点(←なんの原点なんだか)に戻って、また楽しく小田さんの絵を見ることができる機会を待ちたいと考えています。
小田さんには、ヘン、ヘン言って申し訳ないと思います。
でも、芸術にとって、ノーマルであるとか、他の人大勢と似ているというのは、まったく褒め言葉ではないと思うのです。
ヘンなのは、よいことなのではないでしょうか。
08年2月13日(水)-20日(水)10:00-20:30(最終日-19:00)
4プラホール(中央区南1西4 4丁目プラザ7階 地図B)
□華AGRA http://www.hanaagra.com/
あぁ~とつながった感じがしました。
確かな存在感を持つ「ヘン」は魅力的と思います。
小田さんの作品はとても個性的な絵だと思います。
授業を受けている気分になります。
知らない事だらけ。難しいコトバの連続。
ですから わたしの わかる 1行を拾っています。
一番好きなのは 「筆者は・・・」から始まる文。
くせ者っぽくて。いいですね。
そこの 部分に わたしは 立ち止まります。
こんなに読み応えのある批評をいただき励まされました。
「room of the head 」も見に来てくださっていたのですね!
maniさんの誘いで私も参加させていただいておりました。
今回の展示は見た方が楽しんでくれたようなのでとても良かったです。
コメントありがとうございます。
でも、ちょっとへこみました。
わたしは、じぶんではかなり易しく書いているつもりです。
水準を落とさずに平易に書くことはけっこう難儀なのですが…。
修業が足りないのですね。
もうすこし努力いたします。
>小田容子さま
かなり妙ちきりんな文章にもかかわらず、あたたかいコメントをいただき感謝いたします。
わたしは小田さんのお話を聞かずに勝手なことを書いてしまいましたが、いつか、どんな思いで絵筆を執っているのか、お聞きしたいと思います。
これからもよろしくお願いしますね。
修業しなければいけないのは、このわたくし。
水準が低いのはわたくし。(笑)
わたしは自分で受けたい授業を選んで受けています。
ですから ヤナイ様の言うコトバでわからない事は
辞書で調べますし、また実際にその展覧会に足を運んでみたりします。
それで ヤナイ様の言っている事を「あぁ・・ こういうこと・・」などなど体で感じています。
とても楽しみな授業(体験含む)です。
また わたしは難しいコトバや表現を使うお方に、心地いい「しびれ」みたいのを感じます。
わたしも知りたいと思います。
ですから ヤナイ様は今のままお続け下さることを願います。
わたしがちょっぴり望むのは、ここのページが冊子のようなものであったらいいなと思います。(縦書きの)
そうして その冊子を読み返し、気になるところ、わからないところ、共感できるところなどに、色とりどりの付箋を貼りたい。
そうして「わかった」時、付箋をはずします。
何度も読み返してわからなくても、ずいぶん日にちが経ってからある日突然「あ・・わかった・・」なんてことよくあります。
過去のもの、現在のものを照らし合わせたい。
そのくらい わたしは北海道のの美術に無知であります。
わたしの言葉でヤナイ様をへこませてしまったこと、深くお詫びいたします。
ヤナイ様をへこませる気持ちは、これっぽっちも(親指と人差し指を合わせて、髪の毛ほどの太さもないくらい)ありません。
ps
腰の痛みが治ることお祈りいたします。
仮にも、というか、すごくへっぽこですけど、いちおうじぶんは新聞記者なので
「中学生にもわかるように記事を書け!」
と先輩からたたきこまれてきました。
makiさんに辞書をひかせているというのは、ほんとに申し訳ないのです。
>わたしは難しいコトバや表現を使うお方に、心地いい「しびれ」みたいのを感じます。
フォローをむりにさせているみたいで、すいませんん。
わたしもそういう時期がかつてありました。
しかし、むずかしいことをむずかしく書くのは、誰だってできます。
じぶんとしては、こむつかしい美術評論みたいのは可能な限り書くまい-と決めているので、上記のような印象を与えたとするならば、やっぱり修業が足りないのだと思います。
>また実際にその展覧会に足を運んでみたりします。
これが、すごくうれしいです。
わたしは、そうしてほしくて、このブログを書いています。
>わたしがちょっぴり望むのは、ここのページが冊子のようなものであったらいいなと思います。(縦書きの)
ほんとに縦書きならいいですよねえ。
わたしも、どうして日本語を横に書かなくてはいけないのだと、いつも思っています。
というわけなので、むずかしくてどうもならん、というときは、どしどしおっしゃってください。
改善に向け大いにがんばります。