2012年2月6日の北海道新聞朝刊によると、札幌在住の画家、八木伸子さん(春陽展、全道展会員)が亡くなられたようです。
おくやみ申し上げます。
(以下、追記)
八木(旧姓松本)伸子さんは札幌生まれ。
筆者の記憶に間違いなければ、母親は、かな書の分野で歴史に残る書家松本春子です。
八木さんは庁立高女(現札幌北高)を卒業後、札幌に疎開していた画家の三雲祥之助・小川マリ夫妻に師事します。
1947年の第2回全道展に初出品。
第3回展で奨励賞、第4回展で知事賞、第5回展で会友推薦、第8回展で会員推挙となります。
ちなみに、第3回展でそろって奨励賞を受けたのが、後に夫となる八木保次さんであり、また、第8回展でそろって会員に推挙されたのが谷口一芳、大谷久子、鎌田俳捺子、岸葉子の4氏という、その後半世紀の全道展を牽引してきた顔ぶれというのが、なかなかすごいです。
ちなみに、伝統ある団体公募展の春陽展には1948年から出品をはじめ、73年に会員となっています。
札幌芸術の森美術館では夫の保次さんとの2人展が1999年に開かれています。
ほかにも、数多くの個展やグループ展を開いたほか、NHK文化センターの絵画教室で講師を務め、教室展にも賛助出品しておられました。
これも記憶違いなら申し訳ないですが、週刊誌「朝日ジャーナル」の表紙を飾ったこともありました。
(「朝日ジャーナル」は60~70年代によく読まれた進歩的な雑誌だったが、論調とは別に、表紙の下3分の1に、新進・中堅の画家の作品を毎週採用しており、画家にとっての励みになっていた)
晩年は、白を基調とした風景画などをよく描いていました。
それは「北海道の日本人が油絵をやることの意味」を突き詰めたひとつの結果であると、筆者には思えてなりません。
白、といっても、油彩ですから、塗り残しではありません。
淡いピンクなどをまじえている白が、雪原の描写として画面に広がっている。枯れた草が風に揺れている。
そんな北国の風景を枯淡の境地でとらえた作品は、八木伸子芸術の、ひとつの到達点でした。
八木伸子さんは、小柄で、赤いベレー帽をいつもかぶり、ギャラリーを回っておられました。
いかにも、女流洋画家(いまとなっては死語ですが)のはしり、といった雰囲気を漂わせていました。
「こんど(岸)葉子さんとちょっとパリへ行ってくるのよ」
という口ぶりも、そうでした。
しかし、浮世離れしていたわけではありません。保次さんのご飯を作り続けながらの画業であり、また、教職についていたわけでもなく、一時東京にあったアトリエを引き払って札幌で画家として生きていたわけですから、目に見えぬ苦労はあったものとしのばれます。
あらためて、ご冥福をお祈りいたします。
(以下、7日に再追記)
「ちょっとパリへ」
などと書くと、なんだかいやみな感じにとられるかもしれませんが、八木伸子さんの場合はそうではなくて、ほんとに絵が好きな少女がそのまま大人になって、近くの美術館を訪れるような風情でした。
晩年になっても熱心にギャラリーをまわっておられました。何度、時計台ギャラリーでお会いしたかわかりません。
春陽にも誇りを持っていらしたようで、「絵らしい絵が集まっていると思うの。どうかしら」などと言われたこともあります。
□春陽展のページ
関連記事(北海道美術ネット)
■春陽会道作家展(絵画部)=2007年、画像なし
■さっぽろ・フランスを愛した画友展(2007年)
■八木伸子・岸葉子2人展(2006年、画像なし)
■藤堂志津子「夫の息子」 八木伸子 挿絵原画展(2005年、画像なし)
■2004年 春陽会道作家展(絵画部)、画像なし
■八木伸子展(2003年、画像なし)
■2002年 春陽会道作家展(絵画部)=画像なし
■春陽会道作家展(絵画部)=2001年
おくやみ申し上げます。
(以下、追記)
八木(旧姓松本)伸子さんは札幌生まれ。
筆者の記憶に間違いなければ、母親は、かな書の分野で歴史に残る書家松本春子です。
八木さんは庁立高女(現札幌北高)を卒業後、札幌に疎開していた画家の三雲祥之助・小川マリ夫妻に師事します。
1947年の第2回全道展に初出品。
第3回展で奨励賞、第4回展で知事賞、第5回展で会友推薦、第8回展で会員推挙となります。
ちなみに、第3回展でそろって奨励賞を受けたのが、後に夫となる八木保次さんであり、また、第8回展でそろって会員に推挙されたのが谷口一芳、大谷久子、鎌田俳捺子、岸葉子の4氏という、その後半世紀の全道展を牽引してきた顔ぶれというのが、なかなかすごいです。
ちなみに、伝統ある団体公募展の春陽展には1948年から出品をはじめ、73年に会員となっています。
札幌芸術の森美術館では夫の保次さんとの2人展が1999年に開かれています。
ほかにも、数多くの個展やグループ展を開いたほか、NHK文化センターの絵画教室で講師を務め、教室展にも賛助出品しておられました。
これも記憶違いなら申し訳ないですが、週刊誌「朝日ジャーナル」の表紙を飾ったこともありました。
(「朝日ジャーナル」は60~70年代によく読まれた進歩的な雑誌だったが、論調とは別に、表紙の下3分の1に、新進・中堅の画家の作品を毎週採用しており、画家にとっての励みになっていた)
晩年は、白を基調とした風景画などをよく描いていました。
それは「北海道の日本人が油絵をやることの意味」を突き詰めたひとつの結果であると、筆者には思えてなりません。
白、といっても、油彩ですから、塗り残しではありません。
淡いピンクなどをまじえている白が、雪原の描写として画面に広がっている。枯れた草が風に揺れている。
そんな北国の風景を枯淡の境地でとらえた作品は、八木伸子芸術の、ひとつの到達点でした。
八木伸子さんは、小柄で、赤いベレー帽をいつもかぶり、ギャラリーを回っておられました。
いかにも、女流洋画家(いまとなっては死語ですが)のはしり、といった雰囲気を漂わせていました。
「こんど(岸)葉子さんとちょっとパリへ行ってくるのよ」
という口ぶりも、そうでした。
しかし、浮世離れしていたわけではありません。保次さんのご飯を作り続けながらの画業であり、また、教職についていたわけでもなく、一時東京にあったアトリエを引き払って札幌で画家として生きていたわけですから、目に見えぬ苦労はあったものとしのばれます。
あらためて、ご冥福をお祈りいたします。
(以下、7日に再追記)
「ちょっとパリへ」
などと書くと、なんだかいやみな感じにとられるかもしれませんが、八木伸子さんの場合はそうではなくて、ほんとに絵が好きな少女がそのまま大人になって、近くの美術館を訪れるような風情でした。
晩年になっても熱心にギャラリーをまわっておられました。何度、時計台ギャラリーでお会いしたかわかりません。
春陽にも誇りを持っていらしたようで、「絵らしい絵が集まっていると思うの。どうかしら」などと言われたこともあります。
□春陽展のページ
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■春陽会道作家展(絵画部)=2007年、画像なし
■さっぽろ・フランスを愛した画友展(2007年)
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■藤堂志津子「夫の息子」 八木伸子 挿絵原画展(2005年、画像なし)
■2004年 春陽会道作家展(絵画部)、画像なし
■八木伸子展(2003年、画像なし)
■2002年 春陽会道作家展(絵画部)=画像なし
■春陽会道作家展(絵画部)=2001年