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伊藤若冲の「動植綵絵」の道内初公開が話題になった展覧会。
ただ「動植綵絵」は全30編のうち展示されたのは2編だけ。
『奇想の系譜』で知られ若冲再評価の立役者となった日本美術史の泰斗、辻惟雄氏は、2026年に三の丸尚蔵館が全面リニューアルオープンするあかつきには、「動植綵絵」全編公開が展覧会の目玉になるだろうと大胆に予測していますので、この絵に興味がある人は、そのときを狙ったほうが良いかもしれません。
実際に会場に足を運んでみたら、円山応挙の存在が際立っていました。
彼の「牡丹孔雀図」は、色の鮮やかさ、迫真の描写力など、どれをとっても一級品と言わざるを得ません。
若冲にしろ応挙にしろ、写真の発明以前に、鳥や動物をどうやってこれほどまでにリアルに描くことができたのか、いつ見ても驚きです。
なにせ鳥や動物は、岩やリンゴや人間のモデルと異なり、勝手に動きます。
動くな! といっても、言葉が通じません。
漠然と筆者が考えているのは、たとえば17世紀の松尾芭蕉や、狩野派の絵師たちは、目の前の現実よりも、歌枕や粉本のほうが大事だし信頼できると感じていたフシがあります。
これは西洋の近世までの美術や文学が、やはり目前の事物や現象よりも聖書に書かれている内容にリアリティを抱いていたこととパラレルのように思えます。
フーコー『言葉と物』によれば、18世紀末から19世紀に入るあたりでエピステーメーの転換が起きたそうですから、西洋でも日本でも「まずは目の前の現実を見て、それを重視する」という知の態度みたいなものが確立してきた、そのあらわれが、日本では応挙や若冲であり、西洋では近代小説の勃興ではないかと、つい大風呂敷を広げてみたくなるのです。
さて、展覧会は3章仕立てで、第2章は「近代の皇室と北海道」、第3章は「北海道と近代美術」と題されて、今回の展覧会が独自に組織したものであることがうかがえます。その意味では一本筋の通った展覧会だといえましょう。
もっとも、第3章には横山大観「輝く大八洲」が展示されていました。
これを北海道との関係で並べるという意図がどこにあるのか、全く理解できません。
さらに展示室の出口附近には、片岡球子や岩橋英遠の、三の丸尚蔵館と関係ない日本画が掛けられていました。
借りてきた点数が足りず、道立近代美術館の所蔵品でお茶を濁したのでしょうか。
あと、これは筆者のごく個人的な感想なので、これを読んでおられる方々にはべつに賛同していただかなくてもかまわないのですが、最後までモヤモヤしていたのは
「皇室のほうが権力もカネもあるのに、どうして下々の者が貴重な品や美術品を献上しなくてはいけないのか。逆だろ!」
ということでした。
もちろん、皇室が買い上げたものも多数あるでしょう。
しかし「献上」というシステム自体、もともと権力とカネのあるところにますます権力とカネが集まってくる仕組みだとしか言いようがありません。
しかも、そこに集まる美術品は、たとえば「ゴルフ」(山口蓬春、昭和3年=1928)だったりするわけですよ。
ケッ、なにがゴルフだよ。
親が金持ちだったからたまたま金がある連中がゴルフに興じているあいだ、東北の農村では食うものにも事欠いて娘を身売りし、労働争議は徹底的に弾圧されていたんだぜ。
この展覧会はテレビ北海道開局35周年記念の催しで、この放送局に関連が深いのは日本経済新聞社だから、ゴルフという題材は身近なのかもしれないけどね。
でも個人的にはちょっとムカついた展覧会でした。
2024年9月21日(土)~10月27日(日)午前9時半~午後5時(入館30分前まで)、月曜休み(祝日は開館し翌火曜休み)
北海道立近代美術館(札幌市中央区北1西17)
過去の関連記事へのリンク
花鳥-愛でる心、彩る技 (2006)
円山応挙のついたてを発見 京都・東本願寺 (2009、画像なし)
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『奇想の系譜』で知られ若冲再評価の立役者となった日本美術史の泰斗、辻惟雄氏は、2026年に三の丸尚蔵館が全面リニューアルオープンするあかつきには、「動植綵絵」全編公開が展覧会の目玉になるだろうと大胆に予測していますので、この絵に興味がある人は、そのときを狙ったほうが良いかもしれません。
実際に会場に足を運んでみたら、円山応挙の存在が際立っていました。
彼の「牡丹孔雀図」は、色の鮮やかさ、迫真の描写力など、どれをとっても一級品と言わざるを得ません。
若冲にしろ応挙にしろ、写真の発明以前に、鳥や動物をどうやってこれほどまでにリアルに描くことができたのか、いつ見ても驚きです。
なにせ鳥や動物は、岩やリンゴや人間のモデルと異なり、勝手に動きます。
動くな! といっても、言葉が通じません。
漠然と筆者が考えているのは、たとえば17世紀の松尾芭蕉や、狩野派の絵師たちは、目の前の現実よりも、歌枕や粉本のほうが大事だし信頼できると感じていたフシがあります。
これは西洋の近世までの美術や文学が、やはり目前の事物や現象よりも聖書に書かれている内容にリアリティを抱いていたこととパラレルのように思えます。
フーコー『言葉と物』によれば、18世紀末から19世紀に入るあたりでエピステーメーの転換が起きたそうですから、西洋でも日本でも「まずは目の前の現実を見て、それを重視する」という知の態度みたいなものが確立してきた、そのあらわれが、日本では応挙や若冲であり、西洋では近代小説の勃興ではないかと、つい大風呂敷を広げてみたくなるのです。
さて、展覧会は3章仕立てで、第2章は「近代の皇室と北海道」、第3章は「北海道と近代美術」と題されて、今回の展覧会が独自に組織したものであることがうかがえます。その意味では一本筋の通った展覧会だといえましょう。
もっとも、第3章には横山大観「輝く大八洲」が展示されていました。
これを北海道との関係で並べるという意図がどこにあるのか、全く理解できません。
さらに展示室の出口附近には、片岡球子や岩橋英遠の、三の丸尚蔵館と関係ない日本画が掛けられていました。
借りてきた点数が足りず、道立近代美術館の所蔵品でお茶を濁したのでしょうか。
あと、これは筆者のごく個人的な感想なので、これを読んでおられる方々にはべつに賛同していただかなくてもかまわないのですが、最後までモヤモヤしていたのは
「皇室のほうが権力もカネもあるのに、どうして下々の者が貴重な品や美術品を献上しなくてはいけないのか。逆だろ!」
ということでした。
もちろん、皇室が買い上げたものも多数あるでしょう。
しかし「献上」というシステム自体、もともと権力とカネのあるところにますます権力とカネが集まってくる仕組みだとしか言いようがありません。
しかも、そこに集まる美術品は、たとえば「ゴルフ」(山口蓬春、昭和3年=1928)だったりするわけですよ。
ケッ、なにがゴルフだよ。
親が金持ちだったからたまたま金がある連中がゴルフに興じているあいだ、東北の農村では食うものにも事欠いて娘を身売りし、労働争議は徹底的に弾圧されていたんだぜ。
この展覧会はテレビ北海道開局35周年記念の催しで、この放送局に関連が深いのは日本経済新聞社だから、ゴルフという題材は身近なのかもしれないけどね。
でも個人的にはちょっとムカついた展覧会でした。
2024年9月21日(土)~10月27日(日)午前9時半~午後5時(入館30分前まで)、月曜休み(祝日は開館し翌火曜休み)
北海道立近代美術館(札幌市中央区北1西17)
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