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小田原のどか あいちトリエンナーレ:2019年秋の旅(65)

2020年01月03日 12時39分00秒 | 道外の国際芸術祭
(承前)

 前回の記事から半月以上がたってしまった。
 しかし、ここまできて、完結をあきらめるわけにはいかない。
 小田原のどかさんの作品は、豊田市駅周辺の2カ所に展示されていた。話の都合上

↓ (1946-1948 / 1923-1951)

と題された、名鉄豊田市駅下の展示から先に書く。

 筆者にとって小田原さんは、まず何よりも、文章の人であり、評論の人だった。
 以前も書いたかもしれないが、共著書である『彫刻の問題』、そして昨年2月に自ら編集した雑誌スタイルの書籍『彫刻 SCULPTURE 1 彫刻とは何か』によって、日本語で書かれる彫刻に関する言説は、根底から覆ったといっても過言ではないだろう。
 そもそも彫刻を巡る言説自体が、絵画などに比べて極端に少なくしか流通していなかったことをさしおいても、それまで仲間内でささやかれてきた「マッス」だの「ボリューム」だのといったジャーゴンの世界から、この作者の言論活動が、彫刻を現実の社会の中における存在へと一気に解き放ったことの意義は、繰り返し強調されてしかるべきだろう。この気鋭の評論家が突如として登場して独力でそれをなしとげたというわけではなく、木下直之や平瀬礼太といった書き手による研究の蓄積があったことはもちろんなのだが、それにしても、この数年で、彫刻論というものの意味するところがまるで変わってしまったことは疑いのないことだと思う。


 事前に得ていた情報から、今回の展示は、それまで作者が積み上げてきた文章を視覚化したような内容であることはおおむね察していた。
 したがって、筆者は非常にストンと胸に落ちたところがあったし、書物ではモノクロームだった図版などが、ここではカラーで提示されていたことも、うれしい気持ちがした。

 ただ、自分は、作者の文章をいろいろ読んできたから、展示内容がスムーズに諒解できたのだが、読んでいない人(おそらくこちらの方が多数派だろう)にどのように受け止められたのかは、正直なところ、わからないとしか言いようがない。
 作者も、日英ふたつの言語で長文の解説を書いた「Look at the sculpture」(彫刻を見よ)というタブロイド8ページの解説を、ちゃんと会場に用意していた。いままでの作者の評論のダイジェスト的な文章とはいえ、4段組み8ページを読みこなすにはかなりの時間がかかりそうだ。
(ちなみに、展示の一部は、「表現の不自由展 その後」の中断を受けて、撤去されていたようだ)


 筆者ごときが作者の評論をみだりに要約することははばかられるが、何をめぐっての文章であり、作品であるかを述べることは許されよう。つまり、主題は、長崎である。
 1945年8月9日に原爆が落とされた長崎は、広島と異なり、爆心地を示す表象を持たない(浦上天主堂は取り壊された)。実は投下の1年後、爆心地に、矢羽のような標識が設置されていたのだ。

 冒頭画像は、その矢を、ネオンサインでかたどった作品である。
 また、この記事の2枚目と3枚目の写真は、別室に貼られた当時の記念写真である(ネオンサインの作品以外は、すべてこちらの別室に並んでいた)。
 2枚目は、米兵たちによる記念写真である。当時、爆心地には「アトミック・フィールド」と呼ばれる米軍の離着陸滑走路があったという。
(しかしなあ、戦勝国というのは、こういうことをやるんだよなあ)
 作者によると、この矢形標柱は1948年に取り外されたらしい。
 その後、55年には北村西望の巨大な「平和祈念像」が設置されたり、あらたに母子像の設置をめぐって侃々諤々かんかんがくがくの議論があったりといった複雑な経緯については、作者の2冊の著書を読んでもらいたいと思う。
 この矢のネオンサインは、70年余りの歴史の地層の上に突き刺さっているのである。


 そして、繰り返しっぽくなるが、ロダン受容以降これまでの彫刻をめぐる言説はどれも、そういう「歴史の地層」をいっさい捨象したところで紡がれてきたのだった。
 そのことを思えば、評論も作品もひっくるめて小田原の営為を見れば、劃期的であると言わざるを得ないのだ。

 ただ、ここではなはだ非本質的なことを述べれば、ネオンサインの作品を見たとき、わずかな違和感を覚えた。
 ネオンサインという「材質」のことではない。
 くわしくはこちらのサイトをごらんになってもらいたいが、すでに過去の流行になっているこの素材を用いていることにも、作者の深い意図が潜んでいることは言うまでもあるまい。乱暴に要約すれば、原爆投下から現在までの中間地点にあたる高度経済成長期のある種の浮薄さがここに暗示されているということになるだろう。

 筆者が引っかかったのは、矢の角度である。

 ネオンサインの作品は、地面に垂直に突き刺さっているように見える。
 それに比べると、米兵の記念写真などは、斜めという印象が強い。

 おそらく原爆それ自体を表象するのなら、垂直の方が科学的な事実に近いのだろう。
 一方、斜めの方が、古典的な弓矢の落下する角度に近い。動感のようなものも感じられる。

 しかし「動感」などということばで、ひとごとのように矢の造形を語ること自体、とてもよろしくないことではないか。
 原水爆の廃絶を世界に訴えていくべき被爆国の一員であるならば、この矢の形状を、歴史から切断して造形の言葉で語ろうとすることが、いわば「反動」的な身振りなのだと、あえて言ってしまいたい。
 なぜ作者は垂直に矢を荒野のなかに立てたのか。
 これはまったくの筆者の憶測にすぎないが、作者なりの慰霊であり、鎮魂が、垂直性に表現されているのではないだろうか。
 「Look at the sculpture」によれば長崎市は当初、慰霊塔の建設を望みながら、GHQの方針などもあり、実現しなかった。それ以降、地元の願いが完全なかたちでかなえられたとはとうてい思えない。
 いや、長崎だけではない。この国の鎮魂のかたちは、靖国神社問題をみても分かるように、1945年以前をきちんと清算しないまま引き裂かれた格好のまま、現代に至っているといえる。
 清算しないあいまいさの引き起こす問題は、この国の彫刻の、通奏低音のように響き渡っている。

 そこに、くさびを打ち込むように垂直に突き刺さった赤い矢…。


 付け加えておくと、筆者は作者の言説いっさいに賛意を示すものではない。たとえば「公共空間の平和の裸婦像が戦後民主主義のレーニン像であった」というような物言いに対しては「いや、従順な日本人は、決して自らの手で像を台座から引きずり落としはしないだろう」と半畳の一つも入れたくなる。
 とはいえ、この作者が「彫刻」という視座から戦後日本を剔抉して見せたその鮮やかさには、あらためて、うならざるを得ないのである。

 予想を上回る長文になってしまったので、屋外の作品については別項に続く。

 なお、最後に載せた画像の、右側の彫刻については、次項で触れる。


□小田原のどかさんのツイッター @odawaranodoka
□公式サイト http://odawaranodoka.com/


関連記事へのリンク
2018年に読んだ本(1) 『彫刻 SCULPTURE 1 彫刻とは何か』(小田原のどか編著、トポフィル




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