道教大岩見沢校の大学院で油彩を学んでいる山崎麻乃、村岡陽菜、清武昌、橋本知恵、山越美里の5氏による展覧会。
最終日に見たのだが、それぞれが問題意識をもって取り組んでおり、なんとなく筆を走らせている人がいなくて、好感を抱いた。少なくとも個人的には、先日、プラニスホールで見た「アートプラネッツグランプリ展」より面白かった。
まず、入り口附近にあった山崎さんの「店番」が目を引いた。変形横長の絵である。
中央アジアや南アジアあたりにありそうな雑貨屋の店頭風景のようであり、極彩色の物体が所狭しと並んでいるのだが、それらがいったい何なのかがよくわからないのがおもしろい。壺? 置物? 左上にはなぜか警察官の襟章が飾られている。
店の左右は、まるでフェルメールの絵のように、カーテンが描かれているのだが、これがまったくフェルメール的な作用を果たしておらず、店内空間と外部を分かつどころか、混とんとした感じを増す方向に働いている。この奥行き感の欠如もおもしろい。
中央附近には、ベールをかぶった女性がすわっており、唯一の登場人物。手前に置いた両手のつめが紫に変色して長くのびており、妖怪の仲間かもしれない。
具象画が「人」や「モノ」を描くといったときに、その対象(モティーフ)とはそもそもなんだろうと考えさせられる。
村岡さん「remenbrance」は、同じ題で2点あるが、いずれも夜の、東京都心とおぼしき風景である。これも興味深い。
というのは、風景画を手がける人は大勢いるが、夜の都市風景を油彩で描いている人は意外と少ないからだ(院展などでは、ときどき見かける)。
ヘッドライトの描法など、写真とも異なる、絵ならではのリアリティーを感じさせる。
さらに興味深いのが、大きさの異なる変形キャンバス3枚を横に並べた「sway」。
冬の列車からの車窓風景なのだろう。木々や電線、淡い夕やけ空が見える。
車窓風景がおもしろいのは、それをカメラで撮影すると一瞬通り過ぎた場所を切り取るわけで、写真がここまで普及してしまった今はそのことを特別ふしぎに感じることはないかもしれないが、一般的な感覚では、車窓の外の風景はあっという間に通り過ぎてしまうものであって、その静止画があること自体、妙な話なのだ。
今回の「sway」は、キャンバスを並べることで、目の前を通り過ぎていく車窓風景の感覚がでていると思う。
付け加えれば、列車の車窓から流れていく風景を見るという体験は、すぐれて「近代的」なものである。
橋本さんは、着衣の人物像を描いている。
「夕焼けを完全に把握しました」の、キャミソールと短パン姿のように、比較的薄着の若い女性や男性の像が中心だが、むしろ裸婦よりも体臭のようなものや生々しさを感じさせる。
よく考えると、全裸で人間がポーズをとっているほうが(そしてそれを他人に恥ずかしげもなくさらしているほうが)異様な事態なのだが、それが油絵になって額縁におさまると、制作する側も鑑賞する側も慣れたもので、「あ、これはゲージュツなのね」と、全裸の異様さをかっこにいれて納得してしまうのだ。
また、もともと絵画は、対象をどこか美化・理想化して描写しがちだが、人物になるとその傾向が顕著になる。さらに、いまは雑誌やテレビなどで、美男美女のイメージがあふれているので、かえって「現実そのまま」がキャンバスに展開されていると、見る側はうろたえてしまうというわけなのだ。
といって、橋本さんはとくだん人間の醜い面を強調して筆を走らせているわけでもない。ただ、ありのままを描くということは、とくに対象が人間の場合は、なんだかおそろしい。クールベの真価は、その「ありのまま」にあったのかもしれないと思った。
山越さんの作品もカテゴリーでいえば風景画なのだろうが、やはり一般の風景画とはすこし違うように思う。
細密に描写しているわけには奥行き感を欠き、なんだか息苦しささえおぼえる(これは、けなしているのではなく、ほめているのです)。
「路地」にいたっては、透視図法を用いて、奥行きのある路地を正面からとらえているにもかかわらず、奥へと空間が広がっているイリュージョン感が乏しい。これは、なんなんだろう。不思議としかいいようがない
「Island」は、何かの巨大タンクとも、軍用通信施設ともとれる建物がモティーフ。この無機質でドライな感覚は、どこかベッヒャー派の写真のようでもある。
そして、清武さんは、3点組「引き合う力の形象(欠片)」などで、抽象なのか具象なのか容易には決めがたい絵に取り組んでいる。
筆者は以前、「公募展向けに手堅くまとめているのではないか」となまいきに苦言を呈したことがあったのだが、そういう「ほどほど」のところを抜け出して、誰も描こうとしていない世界に挑んでいるのを見るのは、非常にうれしい気持ちである。
清武さんは、何かの気配、空気感を描こうとしているのだろうか。その意図するところはわからないけれど、無機性と生命感とが同居する独特の画面がたちあがっているのもまちがいない。
出品作は次の通り。
山崎麻乃
店番
メデューサの魔女
ミゼリコルティアの聖母
橋本知恵
そこにあること
そこにいること
肖像1
肖像2
肖像3
胡蝶の夢
弧蝶は夢
夕焼けを完全に把握していた
村岡晴菜
dimness
February
At dusk
remebrance(同題2点)
sway
山越美里
路地
野町
01mo
壁
studio JJ
Calle Toledo MAD.
Island
清武昌
しじま(同題2点)
無題(5点)
海岸にて
引き合う力の形象(欠片)
エリンギ2本
2013年8月19日(月)~24日(土)午前10時~午後6時
札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3)
最終日に見たのだが、それぞれが問題意識をもって取り組んでおり、なんとなく筆を走らせている人がいなくて、好感を抱いた。少なくとも個人的には、先日、プラニスホールで見た「アートプラネッツグランプリ展」より面白かった。
まず、入り口附近にあった山崎さんの「店番」が目を引いた。変形横長の絵である。
中央アジアや南アジアあたりにありそうな雑貨屋の店頭風景のようであり、極彩色の物体が所狭しと並んでいるのだが、それらがいったい何なのかがよくわからないのがおもしろい。壺? 置物? 左上にはなぜか警察官の襟章が飾られている。
店の左右は、まるでフェルメールの絵のように、カーテンが描かれているのだが、これがまったくフェルメール的な作用を果たしておらず、店内空間と外部を分かつどころか、混とんとした感じを増す方向に働いている。この奥行き感の欠如もおもしろい。
中央附近には、ベールをかぶった女性がすわっており、唯一の登場人物。手前に置いた両手のつめが紫に変色して長くのびており、妖怪の仲間かもしれない。
具象画が「人」や「モノ」を描くといったときに、その対象(モティーフ)とはそもそもなんだろうと考えさせられる。
村岡さん「remenbrance」は、同じ題で2点あるが、いずれも夜の、東京都心とおぼしき風景である。これも興味深い。
というのは、風景画を手がける人は大勢いるが、夜の都市風景を油彩で描いている人は意外と少ないからだ(院展などでは、ときどき見かける)。
ヘッドライトの描法など、写真とも異なる、絵ならではのリアリティーを感じさせる。
さらに興味深いのが、大きさの異なる変形キャンバス3枚を横に並べた「sway」。
冬の列車からの車窓風景なのだろう。木々や電線、淡い夕やけ空が見える。
車窓風景がおもしろいのは、それをカメラで撮影すると一瞬通り過ぎた場所を切り取るわけで、写真がここまで普及してしまった今はそのことを特別ふしぎに感じることはないかもしれないが、一般的な感覚では、車窓の外の風景はあっという間に通り過ぎてしまうものであって、その静止画があること自体、妙な話なのだ。
今回の「sway」は、キャンバスを並べることで、目の前を通り過ぎていく車窓風景の感覚がでていると思う。
付け加えれば、列車の車窓から流れていく風景を見るという体験は、すぐれて「近代的」なものである。
橋本さんは、着衣の人物像を描いている。
「夕焼けを完全に把握しました」の、キャミソールと短パン姿のように、比較的薄着の若い女性や男性の像が中心だが、むしろ裸婦よりも体臭のようなものや生々しさを感じさせる。
よく考えると、全裸で人間がポーズをとっているほうが(そしてそれを他人に恥ずかしげもなくさらしているほうが)異様な事態なのだが、それが油絵になって額縁におさまると、制作する側も鑑賞する側も慣れたもので、「あ、これはゲージュツなのね」と、全裸の異様さをかっこにいれて納得してしまうのだ。
また、もともと絵画は、対象をどこか美化・理想化して描写しがちだが、人物になるとその傾向が顕著になる。さらに、いまは雑誌やテレビなどで、美男美女のイメージがあふれているので、かえって「現実そのまま」がキャンバスに展開されていると、見る側はうろたえてしまうというわけなのだ。
といって、橋本さんはとくだん人間の醜い面を強調して筆を走らせているわけでもない。ただ、ありのままを描くということは、とくに対象が人間の場合は、なんだかおそろしい。クールベの真価は、その「ありのまま」にあったのかもしれないと思った。
山越さんの作品もカテゴリーでいえば風景画なのだろうが、やはり一般の風景画とはすこし違うように思う。
細密に描写しているわけには奥行き感を欠き、なんだか息苦しささえおぼえる(これは、けなしているのではなく、ほめているのです)。
「路地」にいたっては、透視図法を用いて、奥行きのある路地を正面からとらえているにもかかわらず、奥へと空間が広がっているイリュージョン感が乏しい。これは、なんなんだろう。不思議としかいいようがない
「Island」は、何かの巨大タンクとも、軍用通信施設ともとれる建物がモティーフ。この無機質でドライな感覚は、どこかベッヒャー派の写真のようでもある。
そして、清武さんは、3点組「引き合う力の形象(欠片)」などで、抽象なのか具象なのか容易には決めがたい絵に取り組んでいる。
筆者は以前、「公募展向けに手堅くまとめているのではないか」となまいきに苦言を呈したことがあったのだが、そういう「ほどほど」のところを抜け出して、誰も描こうとしていない世界に挑んでいるのを見るのは、非常にうれしい気持ちである。
清武さんは、何かの気配、空気感を描こうとしているのだろうか。その意図するところはわからないけれど、無機性と生命感とが同居する独特の画面がたちあがっているのもまちがいない。
出品作は次の通り。
山崎麻乃
店番
メデューサの魔女
ミゼリコルティアの聖母
橋本知恵
そこにあること
そこにいること
肖像1
肖像2
肖像3
胡蝶の夢
弧蝶は夢
夕焼けを完全に把握していた
村岡晴菜
dimness
February
At dusk
remebrance(同題2点)
sway
山越美里
路地
野町
01mo
壁
studio JJ
Calle Toledo MAD.
Island
清武昌
しじま(同題2点)
無題(5点)
海岸にて
引き合う力の形象(欠片)
エリンギ2本
2013年8月19日(月)~24日(土)午前10時~午後6時
札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3)