札幌で画家として活動し、北海道教育大で41年間にわたりたくさんの後進を育ててきた山本勇一さんが14日、亡くなりました。78歳でした。
国展と道展の会員の画家でしたが、道教育大教授としての印象が強烈です。
学生からは「やまゆう先生」と慕われ、教え子の個展などにはとにかくマメに足を運んでいました(年々教え子は増えていくから大変だったはずです)。
その関係で言うと、2008年に、西田卓司さんら学生・院生計9人が、道教大札幌校、札幌・山鼻のPRAHA、岩見沢の「キューマル」の3カ所で1カ月間にのべ18回もの展覧会を開いた、「SPIRAL」というとんでもない連続企画がありました。
西田さんから「すべてを見た人はいないはず」と言われましたが、筆者よりも多く、大半の会場に足を運んでいた人がいました。それが、山本勇一教授だったのです。正直、かなわないな~と脱帽でした。
道内にももちろん東京藝大や金沢美工大、ムサビやタマビ、造形、女子美といった大学の卒業生もいますが、なんといっても北海道学芸大・教育大出身の存在感が大きいです。
山本勇一さんの油彩研究室から巣立ち、画家として活動を続けている人も相当な数にのぼるでしょう。
ただ、教え子の方に話を聞くと、手取り足取りといった感じではまったくなく、むしろ放任で、学生たちの自主性に任せていたそうです。
学生たちは、研究室に置いてあったリヒターなどの画集を見ながら芸術論を活発に戦わせたという話も聞いています。
故五十嵐さんのブログ「北海道を彩るアーティスト http://saruuni.blog96.fc2.com/blog-entry-31.html」によると、1944年滝川市生まれ。1969年に東京芸大油画教官室副手から非常勤助手となり、1972(同47)年に母校道教育大学札幌校で指導。
1968年国画会展で国画賞、道展で1970年道立美術館館長賞、72年協会賞、73年会友賞など相次いで受賞しています。
大学のほうが忙しかったためかどうかわかりませんが、個展は、1979年の次は2015年の退官時まで36年間も開いていませんでした。
その後は2018年に開いたきりです。
筆者はいずれもブログには記録しておらず、自らの不覚というか怠慢を恥じるばかりです。
2度の個展で見た山本勇一さんの絵は、省筆の効いた室内画や人物画などでしたが、とにかく構図に意を用いていることは、大変なものでした。
現代の絵画の特徴として、古典的な透視図法に乗っ取ったものではない、独自の奥行き感を持ったものが挙げられます。見る人の視線を単純に奥へと誘導するのではなく、大事な要素を円環状に巧みに配置して、いつまでも視線を画面にとどまらせる絵が、見応えのある絵であるということができるでしょう(いろいろな意見はあるでしょうし、ほかにも良い絵というのはありえるでしょうが)。
その基準でいけば、山本さんの絵画はすごかったです。視線は人物から窓へ、そして静物へと移動させられ、いつまでたっても画布から離すことができず、回遊を余儀なくされます。一瞥で全容が明らかになるのが絵画一般の美質だということはできますが、一瞥ではまったく済まないことこそが、山本作品のキモだったと思います。
「偲ぶ会」は16日午後5時半~6時半(随時。遺族が参列する通夜はこの後)、「お別れ会」は17日午前9時から、北区篠路8の5、あいプランやわらぎ斎場篠路で。
国展と道展の会員の画家でしたが、道教育大教授としての印象が強烈です。
学生からは「やまゆう先生」と慕われ、教え子の個展などにはとにかくマメに足を運んでいました(年々教え子は増えていくから大変だったはずです)。
その関係で言うと、2008年に、西田卓司さんら学生・院生計9人が、道教大札幌校、札幌・山鼻のPRAHA、岩見沢の「キューマル」の3カ所で1カ月間にのべ18回もの展覧会を開いた、「SPIRAL」というとんでもない連続企画がありました。
西田さんから「すべてを見た人はいないはず」と言われましたが、筆者よりも多く、大半の会場に足を運んでいた人がいました。それが、山本勇一教授だったのです。正直、かなわないな~と脱帽でした。
道内にももちろん東京藝大や金沢美工大、ムサビやタマビ、造形、女子美といった大学の卒業生もいますが、なんといっても北海道学芸大・教育大出身の存在感が大きいです。
山本勇一さんの油彩研究室から巣立ち、画家として活動を続けている人も相当な数にのぼるでしょう。
ただ、教え子の方に話を聞くと、手取り足取りといった感じではまったくなく、むしろ放任で、学生たちの自主性に任せていたそうです。
学生たちは、研究室に置いてあったリヒターなどの画集を見ながら芸術論を活発に戦わせたという話も聞いています。
故五十嵐さんのブログ「北海道を彩るアーティスト http://saruuni.blog96.fc2.com/blog-entry-31.html」によると、1944年滝川市生まれ。1969年に東京芸大油画教官室副手から非常勤助手となり、1972(同47)年に母校道教育大学札幌校で指導。
1968年国画会展で国画賞、道展で1970年道立美術館館長賞、72年協会賞、73年会友賞など相次いで受賞しています。
大学のほうが忙しかったためかどうかわかりませんが、個展は、1979年の次は2015年の退官時まで36年間も開いていませんでした。
その後は2018年に開いたきりです。
筆者はいずれもブログには記録しておらず、自らの不覚というか怠慢を恥じるばかりです。
2度の個展で見た山本勇一さんの絵は、省筆の効いた室内画や人物画などでしたが、とにかく構図に意を用いていることは、大変なものでした。
現代の絵画の特徴として、古典的な透視図法に乗っ取ったものではない、独自の奥行き感を持ったものが挙げられます。見る人の視線を単純に奥へと誘導するのではなく、大事な要素を円環状に巧みに配置して、いつまでも視線を画面にとどまらせる絵が、見応えのある絵であるということができるでしょう(いろいろな意見はあるでしょうし、ほかにも良い絵というのはありえるでしょうが)。
その基準でいけば、山本さんの絵画はすごかったです。視線は人物から窓へ、そして静物へと移動させられ、いつまでたっても画布から離すことができず、回遊を余儀なくされます。一瞥で全容が明らかになるのが絵画一般の美質だということはできますが、一瞥ではまったく済まないことこそが、山本作品のキモだったと思います。
「偲ぶ会」は16日午後5時半~6時半(随時。遺族が参列する通夜はこの後)、「お別れ会」は17日午前9時から、北区篠路8の5、あいプランやわらぎ斎場篠路で。