(承前。長文です。文中敬称略)
前項でも書いたけれど、昔の新聞の図版はほんとうに粗い。
モノクロなのはもちろん、粒子が粗い。しかも小さくレイアウトされているので、この図版から、実際の絵画作品がどんなものかを理解するのはほとんど不可能じゃないか。
その上、当時の「北海タイムス」の整理記者が悪いのか、絵がかなりトリミングされていることが多い。
カラーが基本になっている最近の美術雑誌とは、まったく別物だと感じる。コーヒーとインスタントコーヒーぐらいの差がある。
だからこそ、美術評論家の腕の振るいどころなんだろうな。
なかがわ・つかさが「北海タイムス」に連載した「忘れられた名作 北海道の物故画家たち」の、山崎省三の項では、つぎのように書かれている。
実際の絵を見るとわかるのだが、まさに山崎省三の絵は、この文章の通りなのだ。
こういう筆力には、ほんと、嫉妬してしまう。
あるいは、日々の展評。
文字数が非常に限られているだけに、あれもこれも取り上げるのではなく、短く的確に作家(と展覧会の)特質を表現する技術が必要になる。
なかがわはこの点でもいかんなく力量を発揮している。
美術評論家ではないが、有名な小説家の永井荷風に「江戸芸術論」という薄い本がある(現在は岩波文庫所収)。
事実上、浮世絵論なのだが、この本には図版が1枚もない。
そんな美術書ってありかよと思うのだが、さすが大作家である。とりあげる絵については、どんな画面なのかを過不足なく説明していて、図版がなくて物足りないと感じさせることが全くない。
ひょっとしたら、図版がカラーになり鮮明になればなるほど、物書きの筆力は劣化していくのかもしれない、なんてことを思った。
この「忘れられた名作たち」のシリーズは、先行文献も美術館も無いなかで、いったいどうやって調査したのだろうか、驚嘆すべき連載である。
おそらく、一軒一軒遺族の元をたずね、聞き取りを重ねていたのだろう。たいへんな労作としか言いようがない。
筆者は、取り上げられた20人のうち、恥ずかしながら、山田義夫、大塚謙三については知らなかった。
また、なかがわ・つかさは読売新聞北海道版に、「北海道の美術」という41回もの連載を掲載している。
これも、先行文献がほとんど無い当時にあっては、取材や執筆には膨大な労力を要したことだろう。
彼のすごいところは、北海道の美術史を語ろうとする者が今でもつい「札幌の絵画」ばかりに目を向けてしまいがちな傾向があるのに、1959年の時点で、道東や道南などの地方や、書、宣伝美術(いまでいうデザイン)、高校生の美術まで触れていることである。
この幅広さが、のちに彼がほぼ独力で雑誌「美術北海道」を創刊し、2号で書を特集するというあたりに現れていると思う。
もっとも、なかがわ・つかさの文章の魅力は、若々しいスピード感にあるのだろう。
全道展に、解散せよとタンカを切った文章の原稿の実物が展示されていたけれど、とにかくペンの勢いがすごい。これは活字を拾う人泣かせである。当時の北海タイムスの文章に誤字脱字が多い原因の一端は、なかがわ自身にあったのではないだろうか。
「忘れられた名作たち」では、画家の人となりも紹介していて、過半数の画家については酒の飲みっぷりにまで文章が渉っているのが可笑しいのだが、或る画家のところでは
「自からはそうのめなかったが、酒席には好んで加わり、若いものの麗話には、ヒザを乗り出す好人物であつた。死の前数年、ストリツプにひどく興じ、私も何度か案内した」
って、そんなことまで書かなくてもいいだろ!(笑)
図録の巻頭論文によると
「なかがわは北海道で初めて美術評論家を名乗り、それを生業とした人物である」
ということだ。
ここに名前の出てくる4人のうち、今も読売新聞北海道版に隔週で「美術の散歩道」を連載している吉田豪介以外はみな鬼籍に入っている。
このほか、「美術北海道」にカンディンスキー論を載せている長谷川洋行、クリストなどについて批評した加藤玖仁子、近年はもっぱら書の評論を書いている佐藤庫之助、廃刊前の北海タイムスで長年、展評に健筆をふるい、それをまとめた「北海道を彩るアーティスト」などの著書がある五十嵐恒、もうすこし世代が下って、近年安田侃や砂澤ビッキなどのモノグラフを上梓するかたわら精力的に活動している柴橋伴夫といった名前が挙がるだろう。
かつて「美術ノート」誌に展評を書いていた佐藤真史はもうほとんど執筆していない。あと、OYOYOの柴田尚もとてもわかりやすく良い批評を「北海道新聞」に連載していたことがある。
現在の「美術ペン」「21ACT」には、吉田、柴橋、五十嵐のほか、この展覧会を組織した吉崎元章も執筆している。
で、ずらずらと名前を並べて、なにが言いたかったかというと、1977年に道立近代美術館が開館するまでは、道内には美術館学芸員がほとんどいなかったのである。
学芸員は、美術評論家とイコールではないが、美術について文章を書くプロである。
そのプロが不在であったため、美術評論家が文章を書かざるを得なかったのだ。
しかし、美術館が、道立のみならず市町村立も含めて各地にできたので、新聞社などは、展覧会の開催にあたって、小難しい文章を書きそうな先入観のある「評論家」よりも、学芸員に寄稿を依頼することが増えてきた。
美術家が個展を開く際の案内状などに載せる短文も、近年は、学芸員が書く場合が多くなっている。
したがって、少なくても道内では、民間の美術評論家でなくてはならないという場面はほとんどなくなってきたような気がする。
長くなってきたなあ。
ここでいったん分割、続きは別項へ。
1.なかがわ・つかさの巧さ
前項でも書いたけれど、昔の新聞の図版はほんとうに粗い。
モノクロなのはもちろん、粒子が粗い。しかも小さくレイアウトされているので、この図版から、実際の絵画作品がどんなものかを理解するのはほとんど不可能じゃないか。
その上、当時の「北海タイムス」の整理記者が悪いのか、絵がかなりトリミングされていることが多い。
カラーが基本になっている最近の美術雑誌とは、まったく別物だと感じる。コーヒーとインスタントコーヒーぐらいの差がある。
だからこそ、美術評論家の腕の振るいどころなんだろうな。
なかがわ・つかさが「北海タイムス」に連載した「忘れられた名作 北海道の物故画家たち」の、山崎省三の項では、つぎのように書かれている。
色数の割りに少ない、大まかでのびやかな筆触でかざりつけのない絵であつた。どちらかといえば、薄手の画面で、ぼうようとした相をとらえ、そのなかに、ねばつこい厚みを備えていた。
実際の絵を見るとわかるのだが、まさに山崎省三の絵は、この文章の通りなのだ。
こういう筆力には、ほんと、嫉妬してしまう。
あるいは、日々の展評。
文字数が非常に限られているだけに、あれもこれも取り上げるのではなく、短く的確に作家(と展覧会の)特質を表現する技術が必要になる。
なかがわはこの点でもいかんなく力量を発揮している。
美術評論家ではないが、有名な小説家の永井荷風に「江戸芸術論」という薄い本がある(現在は岩波文庫所収)。
事実上、浮世絵論なのだが、この本には図版が1枚もない。
そんな美術書ってありかよと思うのだが、さすが大作家である。とりあげる絵については、どんな画面なのかを過不足なく説明していて、図版がなくて物足りないと感じさせることが全くない。
ひょっとしたら、図版がカラーになり鮮明になればなるほど、物書きの筆力は劣化していくのかもしれない、なんてことを思った。
2.なかがわ・つかさの粗さ
この「忘れられた名作たち」のシリーズは、先行文献も美術館も無いなかで、いったいどうやって調査したのだろうか、驚嘆すべき連載である。
おそらく、一軒一軒遺族の元をたずね、聞き取りを重ねていたのだろう。たいへんな労作としか言いようがない。
筆者は、取り上げられた20人のうち、恥ずかしながら、山田義夫、大塚謙三については知らなかった。
また、なかがわ・つかさは読売新聞北海道版に、「北海道の美術」という41回もの連載を掲載している。
これも、先行文献がほとんど無い当時にあっては、取材や執筆には膨大な労力を要したことだろう。
彼のすごいところは、北海道の美術史を語ろうとする者が今でもつい「札幌の絵画」ばかりに目を向けてしまいがちな傾向があるのに、1959年の時点で、道東や道南などの地方や、書、宣伝美術(いまでいうデザイン)、高校生の美術まで触れていることである。
この幅広さが、のちに彼がほぼ独力で雑誌「美術北海道」を創刊し、2号で書を特集するというあたりに現れていると思う。
もっとも、なかがわ・つかさの文章の魅力は、若々しいスピード感にあるのだろう。
全道展に、解散せよとタンカを切った文章の原稿の実物が展示されていたけれど、とにかくペンの勢いがすごい。これは活字を拾う人泣かせである。当時の北海タイムスの文章に誤字脱字が多い原因の一端は、なかがわ自身にあったのではないだろうか。
「忘れられた名作たち」では、画家の人となりも紹介していて、過半数の画家については酒の飲みっぷりにまで文章が渉っているのが可笑しいのだが、或る画家のところでは
「自からはそうのめなかったが、酒席には好んで加わり、若いものの麗話には、ヒザを乗り出す好人物であつた。死の前数年、ストリツプにひどく興じ、私も何度か案内した」
って、そんなことまで書かなくてもいいだろ!(笑)
3.美術評論家の誕生
図録の巻頭論文によると
「なかがわは北海道で初めて美術評論家を名乗り、それを生業とした人物である」
ということだ。
ほぼ時を同じくして昭和29年頃から北海道新聞で竹岡和田男が初の美術専門記者として活動を始め、少し遅れて吉田豪介も同紙に寄稿するようになる。さらに画家小谷博貞が北海タイムスでなかがわが書いていない時期に精力的に展覧会評を続けるなど、札幌の美術評論はこれまでにない活発な時期を迎えることになる。
ここに名前の出てくる4人のうち、今も読売新聞北海道版に隔週で「美術の散歩道」を連載している吉田豪介以外はみな鬼籍に入っている。
このほか、「美術北海道」にカンディンスキー論を載せている長谷川洋行、クリストなどについて批評した加藤玖仁子、近年はもっぱら書の評論を書いている佐藤庫之助、廃刊前の北海タイムスで長年、展評に健筆をふるい、それをまとめた「北海道を彩るアーティスト」などの著書がある五十嵐恒、もうすこし世代が下って、近年安田侃や砂澤ビッキなどのモノグラフを上梓するかたわら精力的に活動している柴橋伴夫といった名前が挙がるだろう。
かつて「美術ノート」誌に展評を書いていた佐藤真史はもうほとんど執筆していない。あと、OYOYOの柴田尚もとてもわかりやすく良い批評を「北海道新聞」に連載していたことがある。
現在の「美術ペン」「21ACT」には、吉田、柴橋、五十嵐のほか、この展覧会を組織した吉崎元章も執筆している。
で、ずらずらと名前を並べて、なにが言いたかったかというと、1977年に道立近代美術館が開館するまでは、道内には美術館学芸員がほとんどいなかったのである。
学芸員は、美術評論家とイコールではないが、美術について文章を書くプロである。
そのプロが不在であったため、美術評論家が文章を書かざるを得なかったのだ。
しかし、美術館が、道立のみならず市町村立も含めて各地にできたので、新聞社などは、展覧会の開催にあたって、小難しい文章を書きそうな先入観のある「評論家」よりも、学芸員に寄稿を依頼することが増えてきた。
美術家が個展を開く際の案内状などに載せる短文も、近年は、学芸員が書く場合が多くなっている。
したがって、少なくても道内では、民間の美術評論家でなくてはならないという場面はほとんどなくなってきたような気がする。
長くなってきたなあ。
ここでいったん分割、続きは別項へ。
創造活動があるところに、それを評論する人は必要でしょう。
どこに住んでいるかは問題ではないし、また特定の地域だけの守備範囲という思考も未熟な思考でしょう。
>どこに住んでいるかは問題ではないし
複製流通物を対象にする批評とそうでない批評とはおのずと事情が異なります。
美術は一般的に複製ではないので、札幌周辺に住んでいない人間が札幌で開かれる美術展を批評することは実際問題として困難です。
どなたかご存知の方はいませんか。
東京でしたら、いざとなれば国会図書館なのでしょうが、果たして?