(承前。画像は、会場になった網走市立美術館)
団体公募展や、現代アートと通称でいわれる分野の絵画を見ても、1950~70年代に隆盛をみせた頃に比べると、抽象画が占める割合は減ってきている。
そういう事情なので、北海道現代具象展は、とくべつ強い傾向があるのではなく、ほとんど抽象に近い作品、スーパーリアルなもの、幻想味の勝ったもの、ユーモラスなものなど、画風は多彩だということができよう。
ただ、「現代」と銘打っているだけに、穏健な写実傾向の絵はここにはない。
強いてマッピングすれば、そういう傾向のベテランは「グループ環」に、また、フォービスム的な傾向のあるベテラン・中堅は「櫂」に、さらに、インスタレーションなどに発展した作品など、絵画という枠組みに自覚的な傾向の中堅・若手は「絵画の場合」に…というおおまかな分類はできそうである。
(いささか乱暴だけど)
現代というのは、どこらへんが現代なのか。
愚考するに、印象派と写真の出現以後、いちばんやり玉に挙げられたのは、透視図法的な遠近法だと思う。
それ以前の西洋絵画では、透視図法的な遠近法が、唯一の、現実の把握法とされていた。
しかし、絵画は絵画独自の行き方があっていいはずだ。だいたい、透視図法というのは、ほんとうは平面なのに、あたかもそこに立体感があるように見せかけるものだ。
…というわけで、19世紀末以降の絵画は「透視図法による現実の再現」というところから、どんどん離れていったのである。
そういう視点で見ると、確かに、一見たんなる写実的な絵に見えても、透視図法的な手法をあえて欠いた作品が多いことがわかる。
たとえば、西田陽二さん「ギリシャ風の翼」。
彼のモチーフはいつも、美しい女性で、裸婦のときも着衣のときもある。
もうひとつの特徴としては、背後が壁で、奥行きがないのだ。
壁にレリーフを掛けているところを見ると、このことに画家は自覚的と思われる。奥行きを欠いた空間で、透視図法的なだましのテクニックに頼ることなく、なおかつ、絵画独自の現実性をいかに出すかということに腐心しているのだろう。
村上陽一さん「樹上の箱」。
彼の作品もリアリズムに見えながら、額縁を思わせる周辺の枠に、翼が重なるなど、現実の単なる反映ではない。
むしろ、ピエロ・デッラ・フランチェスカのような、「透視図法が完成する前のリアル」とでもいうべき行き方をめざしているように思われる。
一見写実的な風景画に見え、そう解釈してもなんら問題ない羽生輝さんの作品も、見ようによっては、奥行き感をわざとそぎ落とし、大胆な再構成と直線化によって「絵画的であること」を優先した構図だといえるだろう。
伝統的な遠近法にのっとった絵画としては、羽山雅愉さんの釧路を描いた作品がある(これは、図録と会場で題名が異なっていた)。
羽山さんの小樽を題材にした絵画と同様、一見現実の街並みを描写しているようにみえて、実は、幻想の都市なのだろう。黄色みを帯びた色合いはもちろん、だいたい、現実の釧路はこんなに賑やかではない。
現代性ということでいえば、描法よりも対象がそうだ、という絵もある。
伊藤光悦さん「最終処分場」。
航空機のスクラップが並ぶ光景を、情感を交えずに描いている。
彼の絵は、ジャーナリスティックな説明に陥ることなく、わたしたちが生きる現代文明の不安と終末を描く。
だから、写実的、というよりはむしろ、象徴的といったほうがよいのかもしれない。
また、作品が現実の反映ではなく、絵であることに自ら言及しているメタ的な部分にも、目が行く。
たとえば、川口浩さんの、女性の肖像を描いた作。
ひとみの描写など、驚くほどリアルである。にもかかわらず、衣服に赤や青の絵の具をそのまま塗ったり、背景にわざと筆触を残したりして、画面が、単なるリアルを裏切って、鑑賞者が目にしているのが決して現実ではなく絵でしかないということを、わざわざ言っているというのが興味深い。
個人的に気になったのは茶谷雄司さんの作品。
教会とおぼしき建物の中に、ひとりいる若い女性がモチーフなのだが、奥の扉が開いていて、屋外の雪景色が見える。視線誘導がうまいと思う。
彼女には、右からも光がおだやかにあたっていて、光線の描写の優しさが心地よい。
2012年2月11日(土)~3月11日(日)9am~5pm、月曜休み
網走市立美術館(南6西1)
・高校生以上200円(20人以上の団体160円)、小中学生100円(同80円)
・JR網走駅から1.2キロ、徒歩16分
・網走バスターミナルから330メートル、徒歩5分
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そういう事情なので、北海道現代具象展は、とくべつ強い傾向があるのではなく、ほとんど抽象に近い作品、スーパーリアルなもの、幻想味の勝ったもの、ユーモラスなものなど、画風は多彩だということができよう。
ただ、「現代」と銘打っているだけに、穏健な写実傾向の絵はここにはない。
強いてマッピングすれば、そういう傾向のベテランは「グループ環」に、また、フォービスム的な傾向のあるベテラン・中堅は「櫂」に、さらに、インスタレーションなどに発展した作品など、絵画という枠組みに自覚的な傾向の中堅・若手は「絵画の場合」に…というおおまかな分類はできそうである。
(いささか乱暴だけど)
現代というのは、どこらへんが現代なのか。
愚考するに、印象派と写真の出現以後、いちばんやり玉に挙げられたのは、透視図法的な遠近法だと思う。
それ以前の西洋絵画では、透視図法的な遠近法が、唯一の、現実の把握法とされていた。
しかし、絵画は絵画独自の行き方があっていいはずだ。だいたい、透視図法というのは、ほんとうは平面なのに、あたかもそこに立体感があるように見せかけるものだ。
…というわけで、19世紀末以降の絵画は「透視図法による現実の再現」というところから、どんどん離れていったのである。
そういう視点で見ると、確かに、一見たんなる写実的な絵に見えても、透視図法的な手法をあえて欠いた作品が多いことがわかる。
たとえば、西田陽二さん「ギリシャ風の翼」。
彼のモチーフはいつも、美しい女性で、裸婦のときも着衣のときもある。
もうひとつの特徴としては、背後が壁で、奥行きがないのだ。
壁にレリーフを掛けているところを見ると、このことに画家は自覚的と思われる。奥行きを欠いた空間で、透視図法的なだましのテクニックに頼ることなく、なおかつ、絵画独自の現実性をいかに出すかということに腐心しているのだろう。
村上陽一さん「樹上の箱」。
彼の作品もリアリズムに見えながら、額縁を思わせる周辺の枠に、翼が重なるなど、現実の単なる反映ではない。
むしろ、ピエロ・デッラ・フランチェスカのような、「透視図法が完成する前のリアル」とでもいうべき行き方をめざしているように思われる。
一見写実的な風景画に見え、そう解釈してもなんら問題ない羽生輝さんの作品も、見ようによっては、奥行き感をわざとそぎ落とし、大胆な再構成と直線化によって「絵画的であること」を優先した構図だといえるだろう。
伝統的な遠近法にのっとった絵画としては、羽山雅愉さんの釧路を描いた作品がある(これは、図録と会場で題名が異なっていた)。
羽山さんの小樽を題材にした絵画と同様、一見現実の街並みを描写しているようにみえて、実は、幻想の都市なのだろう。黄色みを帯びた色合いはもちろん、だいたい、現実の釧路はこんなに賑やかではない。
現代性ということでいえば、描法よりも対象がそうだ、という絵もある。
伊藤光悦さん「最終処分場」。
航空機のスクラップが並ぶ光景を、情感を交えずに描いている。
彼の絵は、ジャーナリスティックな説明に陥ることなく、わたしたちが生きる現代文明の不安と終末を描く。
だから、写実的、というよりはむしろ、象徴的といったほうがよいのかもしれない。
また、作品が現実の反映ではなく、絵であることに自ら言及しているメタ的な部分にも、目が行く。
たとえば、川口浩さんの、女性の肖像を描いた作。
ひとみの描写など、驚くほどリアルである。にもかかわらず、衣服に赤や青の絵の具をそのまま塗ったり、背景にわざと筆触を残したりして、画面が、単なるリアルを裏切って、鑑賞者が目にしているのが決して現実ではなく絵でしかないということを、わざわざ言っているというのが興味深い。
個人的に気になったのは茶谷雄司さんの作品。
教会とおぼしき建物の中に、ひとりいる若い女性がモチーフなのだが、奥の扉が開いていて、屋外の雪景色が見える。視線誘導がうまいと思う。
彼女には、右からも光がおだやかにあたっていて、光線の描写の優しさが心地よい。
2012年2月11日(土)~3月11日(日)9am~5pm、月曜休み
網走市立美術館(南6西1)
・高校生以上200円(20人以上の団体160円)、小中学生100円(同80円)
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