さぬき市地方は気圧の谷や梅雨前線の影響で雨が降っている。気温は21度から25度、湿度は92%から96%とムシムシとする空気。風は3mから18mの南東の強い風が吹き荒れていた。電線がピューピューと騒いでいる。明日の4日は、梅雨前線は南下するが、気圧の谷の影響で雲が広がりやすく、未明にかけて、雨の降る所がある見込みらしい。
先日に、このようなパンフレットを頂いたもので、けいこばぁと弟のたっくんを誘って出掛けてみた。朝から雨が降っていたので、こんな日には家にこもっているしかないなぁと思っていたので、仕方なく、二人ともついてきた。
この郷土博物館は、坂出の実業家鎌田勝太郎(1864年~1942年)が1918年(大正7年)に育英奨学と社会教育を目的に設立した財団法人鎌田共済会の図書館として、1922年(大正11年)に、香川県の技師・富士精一監修の下、竹中工務店の設計施工で建設された。地上3階建ての鉄筋コンクリート造の建物で、外壁はモルタル塗の掻き落し仕上げと思われ、半円形の窓や石造風の壁面、2階上部の波を打ったようなコーニスに施された半円形の装飾に特徴があり、初期の本格的鉄筋コンクリート造図書館建築としても貴重な建物である。(同館HPより)
久米栄左衛門通賢 (1780~1841年)は讃岐の生んだ科学者、技術者、塩田開発の事業家として卓抜・多彩な活動を行い、天文観測、測量、銃砲の製作・改良、各地の土木工事等においても多くの業績を残している。これは測量用具の「地平儀」というもの。この展示会では久米通賢の活動の軌跡を、残された多数の器物・絵図・地図・文書・記録等から公開しているもの。地元では「讃岐のエジソン」として尊敬されている。
栄左衛門は安永9年(1780)、讃岐国大内郡馬宿(現在の香川県東かがわ市)の農家に生まれる。幼少のころから利発で学問好きな子だったため、引田港から大坂に向かう船の舵取りも務めていた父の嘉兵衛は、大坂に行くたび栄左衛門のために書物を買ってきていた。また、手先が器用で熊や獅子を粘土で作るのが得意だったため「獅子熊」と呼ばれていた。7歳の頃、栄左衛門は父に連れられ大坂の町の時計店に行く機会があり、当時最先端の機器であった時計の修繕を熱心に眺めていた。そこへ別の客がやってきて店の者に時計の修繕を依頼したが、店の者は誰も手がすいていない。そこで栄左衛門が店の道具を借りて見よう見まねで修繕をしてみたところ、時計は元の通り動くようになったため、皆大いに驚き喜んだという。
1798年(寛政10年)、大坂へ出て暦学者の間重富の門下となり、暦学・数学等を学んだ。1802年(享和2年)父・嘉兵衛が逝去したため帰郷。その後も郷里で勉学に励んだ。江戸時代も末期になると、外国船が日本近海を訪れるようになっていたため、栄左衛門も兵法、オランダ流砲術等を学んでいる。1806年(文化3年)、松藩藩の測量方に採用され、領内の引田から西へと実地測量地図の作成に従事した。この地図は伊能図より早い讃岐国最古の実測地図である。また翌年には軍艦の設計も行っている。1808年(文化5年)、幕府命令で日本地図を作成していた伊能忠敬一行が讃岐国を訪れ、栄左衛門もこれに協力した。(以上Wikipediaより)
これは、そのときの様子を描いた絵図の一部。さすが、幕府御用というのはすごいなぁと思わせる大行列に大船団が組まれている。
これも栄左衛門が作成した「百敵銃」というもの。06年(文化3)藩命で領内の海岸と街道の測量を行い,09年士分(天文測量方)に取り立てられ,久米姓を名のる。このときに「通賢」を名乗ることになった。銃砲発射機構の改良に努力し,12年輪燧佩銃(りんついはいじゆう)(歯車式撃発銃)を,24年(文政7)には風砲(ふうほう)(空気銃)を,39年(天保10)には〈ドンドロ付木〉(オランダ製マッチ)の製造に成功,39年以降これを発火装置に応用した多くの雷管式銃などを製作して,近江国の鉄砲鍛冶国友藤兵衛とならび称せられた。また,これらの発火装置を使用した大砲製作に努力し,発貢,無敵銃,百敵砲などの作品をのこした。(コトバンクより)
館内の様子であるが、さりげなく、大正時代を思わせる調度品や建物の端々になつかしさと優雅さを感じさせてくれる建物であった。
帰りには直売店で、鎌田醤油の「めんつゆ」をお土産として買って帰った。これがあれば、おうどんやそうめんのお出汁やタレには困らない。
で、今日のお昼はここになった。坂出市富士見町にある「日の出製麺所」という数少ない「製麺所系」のお店。ここは昭和5年の創業で、昼間の1時間しか(11:30~12:30)しか、ここで食べることができない。普段は製麺所ということで平成10年頃までは卸売りと店頭でのうどんの玉売りと生うどんの手土産や贈答品の販売卸しかやっていなかったのだが、その頃から店頭で「食べさせて欲しい」というお客様が来るようになり、最初はずっと断っていたのだが、ある日、どうしても断りきることができないことがあり、お出ししたのが始まりだという。
さて、並んでいると店員さんがまずメニューを聞きに来てくれる。「ぬくいんな、つめたいんな。釜玉、大、中、小。」と、たった、こんだけ。私と弟は「釜玉中」けいこばぁは「ぬくいんの中」を注文。しばらく待ってると順番に案内されて、私たちは本店の隣の部屋へ入ることになった。テーブルとパイプいすが20席くらい用意されていて奥から詰めて座っていく。テーブル上にはラップのかかったネギとハサミが・・・。これを自分でハサミで切って麺にふりかける。
最初の100食は「さぬきの夢2000」を使用するらしいが、私が丁度100食目。弟は当店ブレンドによる麺らしい。半年もの間に渡ってうどんが食べられなかったのに、目が覚めるほどのおいしさ・・・。普通は小(1玉)のうどんが食べられなかったのに、ここでは2玉をあっさりと食べてしまった。麺と生玉子としょうゆとネギとおろししょうがだけなのに。で、これで180円ですと・・・。
今日の掲示板はこれ。「雨の日も風の日も また悩む日も それがそのまま人生なり」と言うもの。一度かぎりの人生、くりかえすことのできない人生。その人生を充実感を持って生きるか空しさと淋しさを持って生きるかは、全て自分自身の責任であろう。「花の生命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と言った小説家がいる。喜怒哀楽の交錯する人生であるが、思いおこされることは実に苦悩に類したものが多いように感じる。しかし、このことばには何かしら心ひかれる響きが感じられはしないだろうか。はかない青春の生命がかみしめた、ほろにがい甘さが感じられるように思った。苦しみは大切にしなければならない。悩みをそまつにしてはならない。雨にも風にも嵐にも、それぞれかけがえのない妙味がある。森羅万象、全てが私の人生を塗り替えてゆくクレヨンである。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。