まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

うつむいた ホタルブクロの 葉に涙

2016年07月02日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れているが、湿った空気の影響で昼過ぎから、雨や雷雨となる所があるらしい。高温が予想され、熱中症の危険が特に高くなる見込みらしい。暑さを避け、水分をこまめに補給するなど、充分な対策をとるように呼びかけている。気温は23.9度から32.1度、湿度は90%から60%、風は1mから2mの北西の風が少しばかり。明日の3日は、湿った空気の影響により曇りで晴れる時もあるけれど、午後からは雨や雷雨となる所がある見込みなのだとか。(tenki.jpより)

 

 朝方は気持ちのよい朝だったが、気温はぐんぐんと上がってきた。

 

 私のパソコンの中のどこにも「山頭火句碑集」のデータが見つからないと書いたら、塩飽本島のお友達から、「こうすれば分かるよ~」と教えてくれたのでやってみたら、「倉庫」というフォルダーの中に投げ込んでいたことが分かった。

 

 だから、今度はよく分かるように表に出しておいた。でも、こうして置いておいても、おそらく今後は開くことはないのだと思う。そう、たびたび、山頭火の句碑集をほしがる人は出て来ないように思う。

 

 毎年7月2日頃に暦の上の「半夏生(はんげしょう)」が来るが、この日を「うどんの日」と1980年に香川県生麺事業協同組合が制定し、以来「半夏生」の日が「うどんの日」になっている。今年は昨日の7月1日が半夏生だった。「半夏生(はんげしょう)」は夏至から数えて11日目。毎年7月2日頃から七夕(7月7日)頃までの5日間が半夏生となる。農家においては田植え終了の目安の日で、半夏生(はんげしょう)のころは、天から毒気が降るという言い伝えがあり、井戸に蓋をしたり、酒や肉を断ったり、野菜や筍を食べるのを控えたりする風習が各地にあった。讃岐地方の農家では半夏生のころ、田植えや麦刈りが終わった労をねぎらう為に、うどんを打って食べる風習があり、それに ちなんで「うどんの日」の由来となったという。

 

 そういう訳でもないのだけれど、少し前に新しく開店したお店があって、そろそろ、お客さんも落ち着いた頃かなぁということで、奥方が「行ってみようよ~」と言うので行ってみた。

 

 奥方が仕事から帰って来たのが12時20分、それから期日前投票をして、出口調査に協力して、13時近くになってやってきたのに、こんな行列が続いていた。でも、待つこと10分程度。

 

 こういう時には簡単なメニューの「冷やかけ小」で210円。そのままのうどんに冷えたかけ出汁を注いだだけ。トッピングはセルフサービス。おいしいという印象はなかった。お出汁が冷たくて気持ちよかった・・・という感想。

 

 ここは、元、「笠堂や」というセルフのお店の駐車場だった場所。そのお店が閉店して、その後に、ここができたもの。ま、新しいうちはどんどんとお客さんが押し寄せていたが、今もお昼時間帯は駐車場がいっぱいになっている。

 

 明日は、自治会館周辺の「一斉清掃日」。その作業の休憩時間用にお茶とパンを出すようになっている。皆さん、白い袋を持っているが、その中にパンとお茶が入っている。

 

 そのパンとお茶を用意するのは自治会長のお役目なのだと・・・。で、その買い物にやってきたというわけ。昨年の帳簿を繰ってみると、ここでお買い物をしている。昨年と同じ単価のパンとお茶とを15人分用意する。うちの自治会は10戸しかない。なぜ、15人分なのかは不明だけれど、ボランティアの方が来るのかも知れないし、ご夫婦で参加される方がおいでになるのかも知れない。

 

 で、奥方に選んでもらって、パンとお茶を昨年と同じ単価のものを同じ数だけ購入した。だから、支出も昨年と同じ金額になった。ふむ、昨年と同じ物価なのか・・。

 

 体調の方はすこぶるいい。「サムスカ15mg錠剤」は高価だけれど、その効果は優れものだ。これを飲むと飲まないでは天国と地獄みたいなもの。もっとも、どちらも実感したことはないのだけれど。これだと二日に一錠とか三日に一錠でもいいんじゃないかと思うほど。体重は66Kgから63Kgまでは下がったけれど、それ以下にはならないみたい。ドクターは58Kgまで落とせ・・・と言うてはるのだけれど、あとの5Kgが落とせない。

  

 今日の掲示板はこれ。「災難が来ぬように祈るのが信心ではない どんな災難が来ても引き受けてゆける力を得るのが信心です」というもの。この世は無常である。常なるものは何もない。「ゆく川の流れは絶えずして、もとの水にあらず」と言われるように常に変化している。「時間よとまれ」という ことはありえない。無常なるがゆえに、一寸先は何が起こるかわからない。一寸先は闇。いくら一生懸命努力しても、勉強しても、頑張っても、結果はどうなるかはわからない。どっちに転ぶかわからないのが現実。どっちに転んでも大丈夫といえるものを身につけていなかったら、結果が悪かった時とても苦しい。仏法 を聞くとは、どっちに転んでも、災難がきても、思い通りにいかなくても大丈夫というものを得ることである。災難が来ないように祈るのが信心ではない。この世は必ず、生老病死の苦しみに出会うのである。祈って無くなるものでは決してない。生きていれば必ず別れや死が来る。与えられたことを引き受け、それを乗り越えていくしかないのである。その乗り越えていく力を得ることが信心であると言うているのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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