武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

戦火の馬

2012年03月20日 | Weblog
スピルパーグ監督の「戦火の馬」が上映されている。
戦場の馬に題材をとったヒューマニズムあふるる映画だった。戦争を讃美するような爆破ばかりな映画はごめんだ。戦場の馬とひとりの青年の感涙にむせぶ映画だった。・・・・・・・・と書いてしまったが、映画はまだ見てない。



私の住む安曇野市穂高にも昔B29という爆撃機がきた。
1945年・・・昭和20年5月15日のことだ。午前11時40分のことだ。
このことはこの前の朝ドラ[おひさま」でもやっていた。国民学校の授業中の出来事になっていた。
この爆撃で二人の方が亡くなっている。馬の一頭死んだと記録にある。
なんで人口の少ない田舎に来たのか。どこをねらったとか、いろいろ説はあるが基地へ帰るために重い爆弾を落とし軽くするためだったとかとも言われている。

ふたたび「戦火の馬」にもどるが・・・・あの戦争には馬は重宝され、多くの馬が徴収され北安曇では450頭であったと。

虫くだし・・・・2

2012年03月19日 | Weblog

天気も悪く、湿気も多いので・・・・これ幸いと刷ってみた。
ま、こんな程度だろう。


前に回虫の話を書いた。パラパラある本を見てると、あの最悪な海人草を飲むと肥溜にポタポタお尻から回虫が落ちたと・・・・・思い出を語る本にいきあった。同じ体験した人はいるのだけど、文章で見るのはめったにない。

こう書いてあった。とにかくあの海人草はきつかった。昔の青汁はまずかったと言うが、そんなもの問題外。どえらい地獄の液体だった。これは同感だ。

これはさんご礁に着いている海草でカイニン酸が回虫に効果があったらしい。

当時「虫くだしチョコレート」と言うのもあったらしい。これを学校で食べたとか。こういうものがあったのだ。今の板チョコのように甘かったとか。
くそーーー田舎だったから、こういうのはなかったな。

戦後、回虫がなぜ多かったというと野菜などの肥料は人糞だったせいだ。
家でもそうだったが、学校でも野菜畑に人糞を使った。学校は当番で肥料をやるのが回ってきた。便所でくみとってキャベツなどにかけた。根元にかけるのは、めんどくさいのでバンバンかけた。当時便所の紙は新聞紙が主で、使った後の黄色の新聞紙がキャベツに張り付いた。
これも乾けばどっかに飛んでいった。

現在、有機栽培とかで野菜を作っているので回虫復活するかも。

本屋の変遷

2012年03月18日 | Weblog
県下の数店舗ある平安堂が買収されたとか。
インターネットの普及で本が売れないそうだ。確かに欲しい本がインターネットで中古なら安く手に入る。1円の本を注文したばかりだ。
このお城風の建物は松本の古本屋だ。・・・・かなり昔から存在してる。
昨年亡くなった北杜夫さんも松高時代に通った・・・・?
店頭にドクトルマンボウのシリーズが並べてあった。この間見たら売れた気配もない。
古本屋はそれでいいかもしれない。
かってこの近くに大きな本屋さんが2軒あった。・・・・なにかそれぞれに特徴があったような気がする。今の本屋はどこも同じような気がする。

巨人伝説

2012年03月17日 | Weblog


昔、でいだら・・・・なんとかと言う巨人がいた。
この巨人のおかげでその業界は発展した。この巨人がルール違反しても文句はなかった。この巨人のふところに入りたくて2年待ったり、ルールをねじまげたりした。
この巨人の後を押すのがY新聞社で、それをあぶりだしているのがA新聞社だ。
どっちにしてもこの業界から、ファンはあきれて離れるだろう。

しかしながら、この巨人の傘下に入ることを望む人も多いのだ。
有力な人もトレードとなると、あの大投手のKさんも、三冠王のOさんも、無冠のKさんも傘下に入るのだ。お金か・・・・・と思ってしまう。

あの「喝」で名を売ってるHさんもそうだ。辛らつなコメントも巨人の話になると大人しくなってしまっている。

しかしながら、大金を出して傘下にいれても活躍は保証されない。伸び悩んでいる人もいる。

うまくいかないものだ。

政治家のひとこと

2012年03月16日 | Weblog


あの名古屋弁をあやつる政治家が南京の代表団を招いた席で、「南京大虐殺はなかったのではないか」と発言した。・・・・いつもなら中国側は取り上げて関係がギクシャクするが・・・・・無知な人の発言は相手にしない。さわげば無知の人が喜ぶだけだ・・・・・・と。軽くあしらわれている。

なんか意図をもって発言したと思われる無知と言われる政治家は・・・むなしい。

わたしの小さい頃の政治家は、なんと言っても吉田茂だ。・・・・それから時たまテレビに顔を出し、ああだこうだと益のないコメントしてるハトのおじいさんがいた。
こういう人が政治家という人種かと思っていた。現在の政治家と違う気がする。

吉田茂はある日、オーバーを来て街頭演説をしてると、「オーバーをぬげ」と野次がとんだ。すかさず「これが本当のガイトー演説だ」と切り替えした。
これを聞いた人は社会党に、こういう機智の富んだ政治家がいたらなーーーーーと嘆いたとか。

餞別の頃

2012年03月15日 | Weblog

送別品に使いたいとかで版画の依頼があった。なるほど、そういう季節なのだ。
もらった方も気に入らないといけない。そう考えると面倒になる・・・・・・・・・・
そこで結論は好きなものを彫る。
これしかない・・・・・・・ということで思い出した風景は「御祭りの金魚すくい」だ。
なんでこうなったか・・・・きっと年取ったせいで、昭和の記憶だろう。

お盆が過ぎると秋祭りだ。むかしは村の青年団が劇をやったり・・・・村芝居の一座を呼んだりにぎわった。へんぴな村にも出店がきたり・・・・・・村芝居の一座の若者と村の娘が恋に落ち・・・・・なんてこともあった。家出当然で村を離れたが・・・・やがて年取って、帰ってきて夫婦で小さな家を建て暮してた。・・・・・・そんな出来事もあった。・・・こういうことは村にとっても大事件なので、こどもの耳にも自然と入ってきた。

村だから金魚すくいは来なかったが、穂高に来て地域の祭りに出かければ・・・・さすが町場・・・・・いろいろ出店もにぎやかだった。
ヒヨコがあたるゲームもあった。これがよく当たり、こども達は喜んでヒヨコを飼っていた。
これが大きくなると、うるさく子どものいる家で・・・・鳴いていた。どいつもオスだった。

養鶏場ではオスのヒヨコは役にたたないのだ。

高層建築を考える

2012年03月14日 | Weblog


我が家の犬公もすっかり成長し、生誕3ヶ月を過ぎようとしている。
高価な檻を購入し、小屋も作った。
この小屋は高層だ。なぜかと言うと中途半端な小屋だと、屋根をかけ上って飛び出してしまう・・・・・・・
故に高層建築となった。板をはりつけて作ってあるので地震には弱いかもしれない。

耐震性を意識しながら、手抜きで作ってあるので・・・・・・・こういうのをアネハ方式と一般に言われている。

芭蕉研究・・・旅の金

2012年03月13日 | Weblog


ふたたび芭蕉だ。
「奥の細道」は3月27日に出発し、最終大垣に着いたのは8月17日。
半年の旅だ。現在の半年という概念と違うだろうから、かなり大変な長旅だろう。この旅を可能にしたのは芭蕉のネットワークだ。
各地に芭蕉を慕う弟子がおり、寒いから出発を延期したらとか、各地の情報がはいってきた。

他にも旅旅・・・・旅にでるには、やはりお金がかかる。

現在に換算した本があった。「奥の細道」は100万円以上の宿代、飲食代などにかかったようだ。それを日数で割ると一日5,500円。二人の旅だったから・・・・倹約してる。

お金の出所は、江戸を出る時の餞別・・・・各地の餞別らしい。そして句会をやると一回3万の謝礼が出た。句を直すと一句3、000円の謝礼が出たとか。
旅であるので句会を頻繁にやるわけでもなく、倹約の旅であったかもしれない。

芭蕉の旅費を考える

2012年03月12日 | Weblog


俳句会にはいって数年になる。
あいかわらず上達しない。何が上達なのかもわからない。
皆さんに点をたくさん入れていただいたのが、良いとも言えないし・・・・・

芭蕉と言う俳人は、江戸の深川に住んだ時弟子のひとりが芭蕉の木を贈ってきれた。それが大きくなって葉をつける頃、誰言うともなく庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになった。
それでは私は「芭蕉」と名乗ろう・・・・・その前は「桃青」と言った。
穂高神社に「桃青」と刻まれた句碑がある。芭蕉と思われる方も少ないだろう・・・・・・・・・。

芭蕉は旅で句を詠んだ。江戸幕府のスパイだったと言う説がある。これは伊賀出身というところから来てるらしい。・・・・旅のスピードも速いので、さすが忍者となった・・・・と言うこともあるらしい。当時の人は車がないし、すべて動くに足だったから・・・・現代の人間と比べられない。

旅の資金は幕府からスパイ資金として出た。・・・・このころの旅は、お金を持ち歩くのは大変だった。小判ではおつりなど出ないし、銀貨はかさばって重い。・・・・・・つまり地方地方にいる弟子たちが用立ててくれたのだ。かなり地方に弟子がいたので、その都度都度いただいていたらしい。持つべきは弟子だ。

幕府などからは出ていない。

日露の戦争

2012年03月11日 | Weblog

震災から一年がたった。
のんびりそんなこと言っていていいのだろうか。

昨日、10日は戦前なら「陸軍記念日」と言う日だ。明治37,8年。日露戦争でロシア軍をせめて奉天を占領した日だ。
この日は花火をあげて、相撲大会などあってお祝いの日であった。ときたま時代物のテレビでそいう場面を見たりする。・・・・戦争を肯定するつもりはない。
日露の戦争大勝利とその日はわいたのだ。

一列談判破列して
日露戦争始まった
・・・・・・・
一、ニで始まるてまり唄は、十でとどまらず

十一越中砥波山
十二は兄さん戦争に
十三咲いたか菊の花
十四は四国の金比羅様
十五は御殿のお姫様
十六ロンドン大都会
十七七士の墓所
十八白馬の大雪渓
十九はくるくる水車
二十は日本大勝利

・・・と続くのだーーーーー