どんなものでも、永久に動き続けるものはない。と判っていても長い間身に着けていて左程問題なく動いていたものが突然不調になるとなんだか力が抜けるような感じがしてしまう。今年3月には24年間乗り続けていた車が車検が通らず(修理部品が手に入らなかったため)、やむなく廃車になり買い換えることになったばかりだ。
今度は40年以上使っていた腕時計の日付が何故か動かなくなってしまった。気が付くと翌日になっても日付が変わていない。はじめは何か一時的な問題かと思っていたが何度修正してもやはり日付が変わらなくなった。どこかの部品が壊れてしまったのだろう。この時計は、当時JALのスチュワーデスをしていた友人に新しい時計を買おうかと思っていると話たところ、それなら免税品で良い時計が買えるよ、ということでヨーロッパに行ったときに買ってもらったロンジン(今ではこんなことをしたら多分税金がかかるのだろうが当時はまだのんびりしていた)。5年ほど前に一度秒針がはずれてしまったことがあり、二月ほどかけて修理をしてもらったことがあった。その時はスイスまで部品を取り寄せるなければならなかった。
今回も同じ代理店に修理に出さなければならないだろう。どの程度の修理になるか、そもそも修理できるのかも判らないが・・・段々といろんなところの部品が故障がちになっていくのかと思うと気が重い。時間自体は正確に刻んでいるので、問題は日付のところ。たかが日付、と言っても腕時計の日付は、普段なら気にもしていないのに、いつまでも同じままだというのは何とも落ち着かない。今どきはスマホがあるので腕時計がなくても不自由はないかもしれない。しかし、前世紀の遺物のようなものだと言っても、さっと腕を伸ばせば見ることのできる腕時計の便利さは、習慣として手放しがたいものがある。
修理に出すことに決めて(ただ、コロナ禍の今その代理店まで出かけるにはためらうところがあり、いつとは言えないが)、家の中を代わりの腕時計を探してみると、自分が初めて親に買ってもらったセイコースポーツマンの腕時計が引き出しの中にあった。これは中学校に進学したとき、腕時計がなくては不便だろうと買ってもらったもの。手巻き式で、防水、耐震とある。自動巻きではなく、ましてや電池式でもないので、一日に一度、リューズ(この言葉はもう今では死語になっているだろうか)を回してゼンマイを巻き上げなくてはならない。その当時は朝起きたらまずリューズをいっぱいに巻き上げるのを習慣にしていたと思う。50年を超えているし、今の時計を買ってからは殆ど使っていないので、もう動かないかと思ったがほぼ正確に動き出した。日付もきちんと変る。当時の日本時計の水準の高さというのか、あるいはたまたま頑丈なものに当たったのかもしれない。このタイプの腕時計は、オークションでは数千円で売られているようだ。骨董品としての価値はないが、自分にとっては中学、高校、大学の時間を刻んだ特別な存在。試験の終了時刻までを確かめた、バスや電車の時間に遅れそうになって一緒に駆けたことなど、この時計と時間を巡る記憶は数知れない。そして今回は、修理の間のリリーフとしてきちんと働いてくれる。