少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

太極拳

2006-04-19 22:48:13 | その他
週に一回、太極拳を習っている。もう10年以上になるだろうか。
今、練習しながら考えているのは手や足の指先。そこに神経を集中させる。
指先の軌跡がどう動くか。如何にしなやかに指が動くか。
そういうことを考えながら1時間ちょっとの練習をする。
終わったあとは毛細血管が開いて足や手が暖かくなるのを感じる。

最良の方法を見つける

2006-04-18 22:17:16 | 写真
ビジネスでも研究でも良い。みんなベストな道を歩みたいと願っている。最初から「まあまあでいい」と思う人などいるはずがない。いや、そんな風に最初から思うようでは、ろくな結果などついてくるはずがない。では、どうやれば最良の選択をすることができるのだろうか。

私は、失敗することしかないと思っている。これでいいかなあと思っても、まだその先にもっと良い道が残されているかもしれない。誰もそれを最良の方法と証明する術がないのである。「あーあ、行き過ぎちゃった」というところまできて初めてどこがピークだったかが分かるのである。だから、最良の選択をするためには失敗をするしかないと思うのである。

話は変わるが、今はみんなデジカメを使うようになったので、フィルム写真など見たこともないという人もいるかもしれない。フィルムを使って写真を撮るとネガというのができる。このネガの濃さというのは、写真を撮るときの露出(光の量)によって変化する。光をたっぷりあてた濃いネガからは、そこそこの写真を作ることが出来る、がベストではない。ベストな写真を焼くためにはギリギリまでネガを薄くする必要があるのだ。もちろん、薄すぎるネガでは、いい写真はできない。ギリギリまで光の量を追い込む必要があるのである。それはもう理論ではないだろう。経験とカンと試行錯誤によってしかもたらされない。プロの写真家でさえ一枚の写真を撮るのに露出を変えて何枚もの写真を撮るのは、そのためなのだ。失敗写真という「生け贄」が、一枚の傑作を作るためには必要なのだ。失敗を恐れてはいけない。その失敗がなければベストは決して得られないのだから。

毎日の仕事に話を戻そう。その仕事はいつも上手くいっているだろうか。そんなことはあるまい。いくら上手く仕事をこなそうと思っても、そうそう思ったようにはことは運ばないに違いない。自分の力の足りなさをなげき、時にはやめてしまいたいと思うかもしれない。でも、ベストの選択をするためには、失敗は必要不可欠なのである。失敗を失敗と感じる価値観を持って仕事をしている限り、必ずその道の先にはゴールが待っているに違いないのである。

仕事が上手くいったとしよう。普通は、「よかったね」ということになる。でも、これまでの議論からすると、それはまだ喜ぶべき状況ではないのだ。少なくとも、それはベストではない。まだアクセルの踏み方が足りないだから。踏み込みすぎて崖から落ちて初めてベストは得られることを忘れてはいけない。

新規事業の探索をするそれが私の仕事だ。まあ、はっきり言って毎日毎日失敗である。失敗を重ねれば重ねるだけ私はベストに近づいていると思っている。いや、ソウ言い聞かせている。ゴールはもうすぐそこにあるに違いない。

現場でのカメラ

2006-04-17 22:25:55 | 写真
今日は一日栃木県にいた。仕事での写真撮影。デジカメとレンジファインダーを持っていった。

スナップを気楽に撮るには首からストラップでカメラをつるしてヒョイと写真を撮るのがとても楽しい。でも、仕事となるとそうは行かない。わずかなカメラぶれでも、写真のシャープさは失われる。室内の対象物ならなおさらだ。フラッシュは使いたくないので、どうしてもシャッタースピードは遅くなる。機械の全てにフォーカスが来るように、絞りも絞るとさらに遅くなってしまう。事実上三脚なしでは撮影は出来ない。

もちろん、そんなことは想定の範囲内なので小型の三脚を持ってきた。デジカメはそれで上手く写真が撮れたのでいいのだが、ベッサの方はカメラにサイドホルダーがつけてあり、そのままではカメラネジに三脚を使えない。

さらに、21mmの広角レンズを使うために外付けのファインダーをカメラの上に載せる。そのファインダーを覗くと、ちょうどカメラのファインダーのところに鼻が行ってしまう。その結果、ファインダーに鼻のアブラがついて曇ってしまった。ああー、やりにくい。

このカメラにはスライドフィルムを撮影したので、結果はまだわからない。が、なんかあまりいい気分がしなかった。どうも段取りがイマイチだったのだ。

カメラで写真を撮ることは、もちろんカメラの性能やアングル、フレームワークが大事である。しかし、最後は撮る人の気分に帰着されると思う。ちょっと反省の残った撮影になった。

撮影旅行

2006-04-16 21:26:59 | 写真
明日は会社のパンフレットやら新聞広告やらの写真を撮りに宇都宮線の石橋に行く。何でも会社で作ったプラントがあるとのこと。現場の写真って結構撮られているんだけど、いざパンフレットに使おうと思うと余計なものが入っていていたりしてどうも上手くない。プロの頼むほどの気合も入っていないので、急遽僕が行くことになった。

新聞の締め切りが迫っているとのことで、基本はデジカメにした。カシオのQV-4000。初めて買ったデジカメだ。もう旧式のおんぼろだけだけど、これが結構良く映る。フードとPLフィルタをつけて持っていくことに。

後はパンフレットなどにも使えるようにベッサに21mmをつけてプロビア100Fを入れて撮るつもり。21mmで広々としたプラントの全景が上手く撮れると良いなあ。

それからおまけにミノルタの一眼レフにモノクロを入れて遊ぼうかと。レンズは50mmと135mm。まあ、135はそんなに出番はないと思うが。

天気も良いらしいし、ちょっと楽しみだね。

光軸調整

2006-04-16 19:44:49 | 天体観測
反射望遠鏡の光軸をを調整するために買った光軸調整用アイピース。一度やってみたんだけど、なんだかわかったような分からないような感じだった。最近、天気が悪いのであまり望遠鏡が出動する時がない。今日は、気合を入れてもう一回挑戦した。

最初にやるのが、光軸アイピースの先端の円と斜鏡の外周の位置をあわせる。まず、このアイピースの先端というのがどこかわからない。最初は覗く側の穴の端ではないかと思ったのだが、これがどうも間違いと言うことが分かった。アイピースの対物側の端の円と斜鏡の端を合わせればいい。なるほど。

次に、斜鏡を回転させて、斜鏡に映った主鏡の中心のマークを、アイピースの十字に合わせる。これは、目の位置によってすぐずれるので、少し目をアイピースから離して見るといいとのこと。なるほど、でもこれはだいぶ微妙。

これで斜鏡の調整は終わりで、あとは主鏡のネジをいじって主鏡に映ったアイピースの中心をセンターマークに合わせる。これはそれほど難しくない。

ということで、一応出来る限りの調整はできたはず。

この間星を見たときに、焦点の前後で光の輪が楕円になっていることに気がついた。それはフォーカスの前後で90度回転する。これが光軸ずれの症状らしい。

今度見たときにこの楕円がどうなるかが楽しみだ。もちろん、結果的に星像がどうなるかももちろん大切だけど。

4つ切り印画紙

2006-04-16 19:29:51 | 写真
HASSELBLAD 503CW, CFE80mm F2.8 Y2 FILTER, FUJI NEOPAN 400 PRESTO, EI=200

新しいイーゼルを買って初めて4つ切り印画紙に焼いた。印画紙は、ヨドバシで安売りをしていたフォルテのRCペーパー。ちょっとブラウンがかった色がなかなかいい。三菱のGEKKOのデータで焼いてみたが、全然ダメ。感度がはるかに低い。何枚か試し焼きをしてやっと、何とか見れる写真ができた。いやあ、大きい写真はいいなあ。ちょっとコストがかかって大変だけどね。

パーフェクトローダー

2006-04-15 21:07:17 | 写真
使っていなかった古い写真の引き伸ばし機を差し上げたら、お礼にと現像タンクの付属品をもらった。それがパーフェクトローダー。これはフィルムをリールに巻き取るための装置。手でもできるので今までは使っていなかったが、時々上手くまけずにフィルムを痛めてしまったり、フィルムが接触して現像ムラにったりすることがあった。手でもできるのに、と思って購入にいたらなかったもの。もちろん、それを期待して引き伸ばし機を譲ったわけではなかったが。大切に使うことにします。感謝。

ブローニーフィルムをローダーを使って巻いて見ました。すごっくいい感じで巻けた。これはいいなあ。

どこまで走る

2006-04-14 22:50:44 | その他
人はどこまで走るのか。

人はなぜ走るのか。

僕は理由を言わない。だって、言ったらもうそれは実現しなくなってしまうから。

本当にやりたいことを人は言っちゃあいけない。そう言っちゃいけないんだ。

人はそれを言うことで、その完璧性を失う。

いや本当は言わなくても、その存在そのものが表現なのだから、その存在と言う表現のために、その思いは完全性を失ってしまう。

でも、僕はそれを言わない。そうであっても言わないのだ。

矛盾

2006-04-12 22:20:03 | 哲学
前にも書いたような気もするけど。
世の中を支配する最も基本的な概念って矛盾じゃないかと思うことがある。

「矛盾は正しい」

この命題は、それ自身が矛盾している。だから矛盾は正しいのだ。

「何かが正しい」

といった時、「何かは正しくない」という命題が即座に作られうる。従ってこの手の命題は完璧ではないのだ。

だが、矛盾は正しいと言ったとき、それ自身が矛盾しているから、最初から自己否定しているから、それを否定することが出来ない。だから、その命題は完璧である。

写真でも、仕事でも、いくら論理的に積み重ねて行っても、最後にはロジカルに説明できない矛盾が残る。だって矛盾しなければ、それは論理的に説明できるのだから。

矛盾を探そう。そしてそれを論理の世界へと引っ張ろう。そして、また新しい矛盾に立ち向かうのだ。それが人生の意味だから。