1400年の昔、新し物好きの崇仏派、曽我馬子と敵対した廃仏派の物部守屋は、あくまで従来の八百万(やおよろず)の神々を奉らんとして八尾の地で激突した。その古戦場を訪ねて八尾に行ってきた。
稲城址は伝承によれば、聖徳太子らの軍勢に攻め込まれた物部守屋がこの地に稲城を築いて立てこもったとされる古戦場址。JR八尾駅のすぐ近くにある渋川神社は伝承によれば物部氏の邸宅のあったところ。樹齢千年を超えるという楠が生い茂っている。八尾市内には物部守屋と聖徳太子の戦いの跡が至る所にあり、ここが物部氏の本拠地であったことがわかる。渋川神社の境内には巨大な楠のほかに大きな椋の木も。
伝承によれば聖徳太子が物部氏の大軍勢に取り囲まれ絶体絶命の危機に陥った時、ムクノキの大木の幹が割れて聖徳太子をかくまいったため太子は九死に一生を得たといわれる。
八尾の市街地からは意外な近くに信貴山が望まれ、この街が今も古代の宗教戦争(?)の伝承の中に生きているように思われた。八尾とか渋川の地名はこの地が天井川の大和川の氾濫にしばしば悩まされてきたことを示唆している。江戸時代18世紀になって大和川の付け替え工事が行われ、旧河川敷の開発により河内木綿が栽培されるようになった。明治以後海外の綿製品が入ってくるまでの一時期、河内木綿はこの地に繁栄をもたらしたと伝わる。マンホールに糸車が刻まれていた。
。