お客さんによく聞かれる質問である。
「なんでガイドさんはニュージーランドに来たのですか?最初のきっかけは何だったんですか?」
ボクの答は「ん~、なんとなくですね」
なんとなくと言われればお客さんだって「はあ、そうですか」と言うしかない。
これだけだと会話が終わってしまうので、この先はガイドトークである。
ボクには3つ年上の兄がいる。
この人は立派な人で、子供の頃から大工になりたいと言って工業高校の建築科に進み、その後大工になった。
こうなればいいな、と思ったことを実現できた人だ。
僕たち兄弟は一つの部屋をカーテンで仕切って使っていた。
大きなベッドに布団が並び、間にカーテンを吊って寝ていた。
ベッドの両側がお互い一応のプライバシーが保たれるスペースである。
部屋の奥が兄で入り口側がボクだった。
兄のプライバシーはかなり守られるが、ボクのプライバシーはかなり侵害される。
部屋を決める時にじゃんけんでボクが勝ったにもかかわらず、その後の交渉で兄が奥になった。
交渉と言えば聞こえは良いが、当時小学生だったボクを兄が買収したのだ。
ボクは500円という大金(当時のボクにとっては)で部屋の奥の権利を譲った。
今から考えれば、文書や契約といった概念を持たないマオリ族に白人が自分達の法律を押しつけたワイタンギ条約に似ていなくもない。
はめられた、と気付いたのはそれからしばらく経ってからだった。500円を返すからやっぱ奥の部屋が良い、と言っても兄が頷く訳がない。最高裁判所(父)に訴えてもあえなく却下。
こうして『後の祭り』という言葉を覚えた。体験型学習とも言えよう。
僕たち兄弟はそんな部屋で成長し、兄は高校へ進みボクは中学生となった。
カーテン越しでも兄の様子は分かる。ボクは兄が家で宿題をやっている姿をほとんど見たことがなかった。
中学生のボクは思った。
「そうか、あの学校の建築科というところに行けば3年間、ああやって遊んで暮らせるんだ。よしオレもそうしよう。」
というわけでボクは自分の進路を兄と同じ県立高校の建築科に決めた。
周りの大人には「学校に行っても勉強したくないし、遊んで暮らしたいから」とは言えず「なんか、建築とか興味があるから」とごまかした。
高校に行ったらその年から先生が代わり、宿題をどっさり出してくれて兄のように遊んでばかりもいかなかくて、ボクの『高校で遊んで暮らす大計画』は崩れてしまったが…。
高校の3年間でボクが一番大きく学んだことは「どうやら自分には建築のセンスがない」ということだった。
自分が一生懸命デザインした家のなんとつまらないものか、それに比べて友達がちゃっちゃと書いたものが素晴らしいものか。
建築は芸術でもある。芸術はセンスだ。センスのない人がどんなにがんばってもセンスのある人にはかなわない。
第一に自分が書いた製図などが好きになれないのだからどうしようもない。
「そうか、自分は建築には向いてない。」これをはっきりと自覚できたことは大きな収穫である。
高校も3年になると進路も決めなくてはいけない。
工業高校の建築科なんて来てしまったから普通の大学に行くような勉強はしていない。
クラスから大学に行く人は推薦だけで、そういう人は普段から勉強もでき、言うなればエリートである。
遊びたいがために建築科を選んだボクとは格が違う。
大学は高校のかなり早い時点であきらめていた。
いや、むしろボクには学歴というものをバカにするような節さえあった。それには理由がある。
高校3年の時にボクは近所のスーパーでアルバイトをしていた。
バイトの中でボクは年長でお店での経験も長く、他のバイトに仕事を割り振るチーフのような存在だった。
春休みだか夏休みだか忘れてしまったが、その店に立教大学に行っている大学生がやってきた。年はボクより2つ3つ上だったと思う。。
ボクの当時の感覚では立教も慶応も東大も東京6大学はひとまとめに「エライ大学」で、そこに行く人は「エライ大学生」だった。これは田舎のスーパー内でも同じようなもので、彼は『立教』と影で呼ばれていた。
彼が入ってきて数日経ったのだが、オタクのなりをした彼は仕事は鈍く、営業時間が終わると他の人が働いていても帰ってしまう。
スーパーの営業時間は8時までで、そこから片づけなどをやるとタイムカードを押すのは8時5分か6分ぐらいになる。
その分の時給は出ないのだが、それぐらいはヒマな時に倉庫のすみでサボっていたので誰も文句も言わずに働いていた。
その彼はきっちり8時にタイムカードを押すように8時数分前にいなくなり、僕らが仕事を終えたときにはいつも帰った後だった。
当然他の高校生からもブーイングは出る。
ある日、ボクはオタク調の彼に詰め寄った。
「あんたねえ、なんでいつも先に帰るの?他の高校生のバイトだって片づけやってるじゃないの。大学生になってそんなことが分からないの?」
彼はボクの目を見ずにモゴモゴと何かつぶやくのみだった。
次の日、ボクは店長に呼ばれた。
「オマエなあ、あんまりバイトの大学生いじめるなよ」
「はあ?いじめる?何があったんですか?」
「昨日の夜、『立教』が倉庫の隅でシクシク泣いていてな。聞いたら『バイトの高校生にいじめられた』って言ってたぞ」
「いじめてなんかいませんよ。『立教』が毎日先に帰るからそう言っただけです」
「まあ、そうだけどな。あんまりいじめるなよ」
ボクは店長に気に入られていて、普段のボクの働きぶりも知っているので、店長も苦笑いをするしかなかった。
今考えるとそいつはひょっとすると重役かなんかの息子かもしれない。
店長をはじめ社員の人が彼に言わないことを、ボクが引き受けてしまったのかもしれない。
その時に思った。
学歴ってこんなものか。
エライ大学(と勝手に思っていただけだが)に行ってもこんな程度か。
自分が大学に行けないのを棚に上げ「よし大学はヤメだ」などと言う始末である。
その後、人生という経験を積み、今では学歴、職歴、社会的地位に関係なく人とつきあえるようになった。
だが今でも学歴社会というシステムは嫌いだ。
さて、進路である。
残りのクラスメイトは就職もしくは専門学校に進んだ。
どちらもボクが今やりたいことではないような気がした。
「さあて、どうしようかな」と思っている時にワーキングホリデー、通称ワーホリの話を聞いた。
これなら海外で働きながら学ぶ、という大義名分になる。
当時はフリーターという言葉が出始めた時代で、正社員にならずアルバイトで生活をしていくという人もチラホラ出始めた時だった。
それでも終身雇用制という制度は染み渡り、学校を出たらどこかの会社に正社員として働く、それが当たり前という観念をほとんどの人が持っていた。
「いい若い者が定職にも就かず、フラフラして」というような口うるさい人には「ちょっと海外へ英語の勉強をしに行きます」なんてことも言えた。
たとえ本来の目的は遊びに行くことだったとしても、静岡の片田舎では「英語を勉強に行く」=「海外留学」=「えらいなあ」ということで、ボクはこの伝家の宝刀を度々使った。
当時はワーホリという制度が始まって2~3年ぐらいか。オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの3カ国だけにワーホリがあった。
カナダもオーストラリアも当時からよく知られていたが、「ニュージーランド?それどこ?」というぐらいマイナーな国だった。
あまのじゃくなボクは「どうせなら誰も知らない国へ行っちゃえ」というわけで、なんとなくニュージーランド行きを決めた。
オークランドに初めて着いた時にはまさか自分がこの国に住むとは思わなかったし、スキーや山のガイドをするなんて考えもしなかった。
それからもなんとなくスキーを始めたらそれで仕事になるぐらいの腕前になったし、なんとなく趣味で山歩きを始めたらトレッキングブームにも乗り、いつのまにかガイドになっていた。
なんとなく、というのは進路を決める上でとても大きな要素なのだ、ボクにとっては。他の人は知らん。
今ではその『なんとなく』というのが直感だったような気がする。
この地に導かれていて、その道にそって来た事に気が付いたのだ。
それ以来ボクは『理由はないけどなんとなくこうしようかな』という想いは大切にしている。
「なんでガイドさんはニュージーランドに来たのですか?最初のきっかけは何だったんですか?」
ボクの答は「ん~、なんとなくですね」
なんとなくと言われればお客さんだって「はあ、そうですか」と言うしかない。
これだけだと会話が終わってしまうので、この先はガイドトークである。
ボクには3つ年上の兄がいる。
この人は立派な人で、子供の頃から大工になりたいと言って工業高校の建築科に進み、その後大工になった。
こうなればいいな、と思ったことを実現できた人だ。
僕たち兄弟は一つの部屋をカーテンで仕切って使っていた。
大きなベッドに布団が並び、間にカーテンを吊って寝ていた。
ベッドの両側がお互い一応のプライバシーが保たれるスペースである。
部屋の奥が兄で入り口側がボクだった。
兄のプライバシーはかなり守られるが、ボクのプライバシーはかなり侵害される。
部屋を決める時にじゃんけんでボクが勝ったにもかかわらず、その後の交渉で兄が奥になった。
交渉と言えば聞こえは良いが、当時小学生だったボクを兄が買収したのだ。
ボクは500円という大金(当時のボクにとっては)で部屋の奥の権利を譲った。
今から考えれば、文書や契約といった概念を持たないマオリ族に白人が自分達の法律を押しつけたワイタンギ条約に似ていなくもない。
はめられた、と気付いたのはそれからしばらく経ってからだった。500円を返すからやっぱ奥の部屋が良い、と言っても兄が頷く訳がない。最高裁判所(父)に訴えてもあえなく却下。
こうして『後の祭り』という言葉を覚えた。体験型学習とも言えよう。
僕たち兄弟はそんな部屋で成長し、兄は高校へ進みボクは中学生となった。
カーテン越しでも兄の様子は分かる。ボクは兄が家で宿題をやっている姿をほとんど見たことがなかった。
中学生のボクは思った。
「そうか、あの学校の建築科というところに行けば3年間、ああやって遊んで暮らせるんだ。よしオレもそうしよう。」
というわけでボクは自分の進路を兄と同じ県立高校の建築科に決めた。
周りの大人には「学校に行っても勉強したくないし、遊んで暮らしたいから」とは言えず「なんか、建築とか興味があるから」とごまかした。
高校に行ったらその年から先生が代わり、宿題をどっさり出してくれて兄のように遊んでばかりもいかなかくて、ボクの『高校で遊んで暮らす大計画』は崩れてしまったが…。
高校の3年間でボクが一番大きく学んだことは「どうやら自分には建築のセンスがない」ということだった。
自分が一生懸命デザインした家のなんとつまらないものか、それに比べて友達がちゃっちゃと書いたものが素晴らしいものか。
建築は芸術でもある。芸術はセンスだ。センスのない人がどんなにがんばってもセンスのある人にはかなわない。
第一に自分が書いた製図などが好きになれないのだからどうしようもない。
「そうか、自分は建築には向いてない。」これをはっきりと自覚できたことは大きな収穫である。
高校も3年になると進路も決めなくてはいけない。
工業高校の建築科なんて来てしまったから普通の大学に行くような勉強はしていない。
クラスから大学に行く人は推薦だけで、そういう人は普段から勉強もでき、言うなればエリートである。
遊びたいがために建築科を選んだボクとは格が違う。
大学は高校のかなり早い時点であきらめていた。
いや、むしろボクには学歴というものをバカにするような節さえあった。それには理由がある。
高校3年の時にボクは近所のスーパーでアルバイトをしていた。
バイトの中でボクは年長でお店での経験も長く、他のバイトに仕事を割り振るチーフのような存在だった。
春休みだか夏休みだか忘れてしまったが、その店に立教大学に行っている大学生がやってきた。年はボクより2つ3つ上だったと思う。。
ボクの当時の感覚では立教も慶応も東大も東京6大学はひとまとめに「エライ大学」で、そこに行く人は「エライ大学生」だった。これは田舎のスーパー内でも同じようなもので、彼は『立教』と影で呼ばれていた。
彼が入ってきて数日経ったのだが、オタクのなりをした彼は仕事は鈍く、営業時間が終わると他の人が働いていても帰ってしまう。
スーパーの営業時間は8時までで、そこから片づけなどをやるとタイムカードを押すのは8時5分か6分ぐらいになる。
その分の時給は出ないのだが、それぐらいはヒマな時に倉庫のすみでサボっていたので誰も文句も言わずに働いていた。
その彼はきっちり8時にタイムカードを押すように8時数分前にいなくなり、僕らが仕事を終えたときにはいつも帰った後だった。
当然他の高校生からもブーイングは出る。
ある日、ボクはオタク調の彼に詰め寄った。
「あんたねえ、なんでいつも先に帰るの?他の高校生のバイトだって片づけやってるじゃないの。大学生になってそんなことが分からないの?」
彼はボクの目を見ずにモゴモゴと何かつぶやくのみだった。
次の日、ボクは店長に呼ばれた。
「オマエなあ、あんまりバイトの大学生いじめるなよ」
「はあ?いじめる?何があったんですか?」
「昨日の夜、『立教』が倉庫の隅でシクシク泣いていてな。聞いたら『バイトの高校生にいじめられた』って言ってたぞ」
「いじめてなんかいませんよ。『立教』が毎日先に帰るからそう言っただけです」
「まあ、そうだけどな。あんまりいじめるなよ」
ボクは店長に気に入られていて、普段のボクの働きぶりも知っているので、店長も苦笑いをするしかなかった。
今考えるとそいつはひょっとすると重役かなんかの息子かもしれない。
店長をはじめ社員の人が彼に言わないことを、ボクが引き受けてしまったのかもしれない。
その時に思った。
学歴ってこんなものか。
エライ大学(と勝手に思っていただけだが)に行ってもこんな程度か。
自分が大学に行けないのを棚に上げ「よし大学はヤメだ」などと言う始末である。
その後、人生という経験を積み、今では学歴、職歴、社会的地位に関係なく人とつきあえるようになった。
だが今でも学歴社会というシステムは嫌いだ。
さて、進路である。
残りのクラスメイトは就職もしくは専門学校に進んだ。
どちらもボクが今やりたいことではないような気がした。
「さあて、どうしようかな」と思っている時にワーキングホリデー、通称ワーホリの話を聞いた。
これなら海外で働きながら学ぶ、という大義名分になる。
当時はフリーターという言葉が出始めた時代で、正社員にならずアルバイトで生活をしていくという人もチラホラ出始めた時だった。
それでも終身雇用制という制度は染み渡り、学校を出たらどこかの会社に正社員として働く、それが当たり前という観念をほとんどの人が持っていた。
「いい若い者が定職にも就かず、フラフラして」というような口うるさい人には「ちょっと海外へ英語の勉強をしに行きます」なんてことも言えた。
たとえ本来の目的は遊びに行くことだったとしても、静岡の片田舎では「英語を勉強に行く」=「海外留学」=「えらいなあ」ということで、ボクはこの伝家の宝刀を度々使った。
当時はワーホリという制度が始まって2~3年ぐらいか。オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの3カ国だけにワーホリがあった。
カナダもオーストラリアも当時からよく知られていたが、「ニュージーランド?それどこ?」というぐらいマイナーな国だった。
あまのじゃくなボクは「どうせなら誰も知らない国へ行っちゃえ」というわけで、なんとなくニュージーランド行きを決めた。
オークランドに初めて着いた時にはまさか自分がこの国に住むとは思わなかったし、スキーや山のガイドをするなんて考えもしなかった。
それからもなんとなくスキーを始めたらそれで仕事になるぐらいの腕前になったし、なんとなく趣味で山歩きを始めたらトレッキングブームにも乗り、いつのまにかガイドになっていた。
なんとなく、というのは進路を決める上でとても大きな要素なのだ、ボクにとっては。他の人は知らん。
今ではその『なんとなく』というのが直感だったような気がする。
この地に導かれていて、その道にそって来た事に気が付いたのだ。
それ以来ボクは『理由はないけどなんとなくこうしようかな』という想いは大切にしている。