危機一髪
2012-12-23 | 日記
昨日の出来事である。
マウントクックからお客さんを乗せてクライストチャーチへ向う仕事だった。
この時期はクリスマスホリデーが始まる時で、国道も混む。
ボートやトレーラーハウスを牽引した、『さあ今からホリデーだ』という車も多い。
国道1号線へ出て、アシュバートン付近の長い直線道路、僕はお客さんにこの国の野菜とエネルギーの関係などといった話をしていた。
対向車がふらっとセンターラインをはみ出した。
「?」と思いアクセルを緩めた。
対向車はなおもフラフラと近寄って来た。
車内では全員が息をのむ。
「おいおい、どこまで来るんだよ」と思ったが向こうは進路を変えず、こちらの道を完全にふさいでしまい、なおも寄って来る。
100キロ近いスピードで走っている車だ。
いきなり急ハンドルを切って路肩の草むらに載せたら横転するかもしれない。
僕は妙に冷静に片輪を草むらにつっこませ、右側のタイヤをアスファルトぎりぎりに乗せその車をやり過ごした。
「はあああ」
大きく息を吐いた。
助かった。
今、考えても不思議なのだが、ブレーキは踏まなかった。
いや、無意識のうちに軽くブレーキはかけたかもしれないがよく覚えていない。
50キロで走っていれば急ブレーキで何とかなるかもしれないが、ここは100キロで対面通行だ。
急ブレーキで何とかなる問題ではない。
急ブレーキを踏んでいたら衝突、もしくは横転していただろう。
その時は車が慣性の法則にしたがい進むのを、コントロールを失わないようにするのに夢中だった。
クラクションなど鳴らす余裕はなかった。
今、冷静に考えてもその時の僕の行動は正解だったと思う。
自分を誉めてやろう。「やるじゃん、俺。」
不思議と恐怖はなかった。
頭の一部は妙に冴えていて、「このまま行ける」と思った。
そして、護られている、とも思った。
サイドミラーで見るとその車は路肩に止まり、後続の車も止まっていた。
後ろの車も無事だったようだ。よかった。
居眠り運転だろう。
20代の僕だったら車を停め、そのドライバーを怒鳴りつけに行ったことだろう。
40半ばの僕は何事も無かったように車を走らせた。
不思議と腹は立たなかった。
過失は100%向こうにあるとはいえ、向こうも怖い思いをしたことだろう。
それで充分だ。
その人を責めたところで何も始まらない。
人を責めれば、自分も落としてしまう。
地獄に落ちろと言えば、その地獄に落ちるのは自分である。
人が人を裁くのではない。
天が人を裁くのだ。
大切なことは人を許す心である。
それよりも、自分と相手が無事だった事に感謝を感じた。
最悪のシナリオは死である。
僕たちは常に死と隣り合わせに生きている。
僕は死を恐れない。怖れないがいつかは死ぬのも知っている。
ただ未だ今は死ぬ時ではないと思う。
日本に父親がまだ生きているので、死ぬのはまだ僕の番ではない。
順番でいえば次は父だ。
父親には「ポックリ逝ってくれ」と常々頼んである。
父親が死んで、自分の番になるまで、先に逝った母親が僕を護ってくれる。
こうやって僕は大いなる力によって生かされている。
死なないにしても事故で怪我というものもある。
そうなれば、ツアー関係で働く周りの人も余計な仕事が増える。
医者だって仕事が増える。
警察だって仕事が増える。
車が壊れればそれを運んだり直したりという仕事も増える。
全てエネルギーの無駄使いだ。
そういう余計なエネルギーを使わずに済んだことにも感謝。
相手だってせっかくのクリスマスホリデーが台無しだ。
気を引き締めて運転する事だろう。
もしそこで反省しなくて、別の場所で事故を引き起こしたならばそれも天命。
そこまでは僕の知ったこっちゃない。
天が人を裁くだけだ。
少し走ると後続の車が追い抜いていった。
きっと一部始終を見ていたのだろう。
助手席の女の人が親指を立てて『Good』のサインを出したので僕も親指を立てて合図をした。
その車にはマウントオリンパスのステッカーが貼ってあった。
なんとなく嬉しかった。
空港近くになり僕は自分の死生観、そして当たり前に生きている喜びをお客さんに伝えた。
お客さんも怖い思いをしたが、納得してくれたようである。
そして無事お客さんを降ろし、一日の仕事を終えた。
家に帰ると女房が餃子を作って待っていた。庭のニラとシルバービートの餃子である。
この日の出来事を話し、ビールで乾杯をした。
あんな事があったからか、いつもよりビールは旨く、餃子も旨い。
家庭は笑い声が響き、犬のココがウロウロする。
食後、マウンテンバイクで犬の散歩にいつもの公園に行った。
だだっ広い空を見ながら以前出会った人との会話を思い出した。
「僕は今まで死にそうな目に何回もあっているんですが、それも守護神様が助けてくれたんでしょうか?」
「そうです。全部守護神が助けてくれています」
「その守護神様にお礼をしたい時はどうすればいいんですか?」
「言葉に出してお礼をしてください。それだけです」
「それだけ?」
「それだけです。言葉に出すということが大切です」
「はあ、そうですか」
今はその言葉が身にしみる。
ちなみに僕の守護神様は大国主命(おおくにぬしのみこと)である。
僕は手を合わせ唱えた。
「ダイコク様、今日は救っていただきありがとうございました。」
その守護神は自分の母親、先祖達、自然の中のもの全てと共に僕を護ってくれる。
当たり前に1日が終わった事に感謝。
旨いギョーザを作ってくれる、できた女房に感謝。
笑い声の響く家庭に感謝。
可愛い娘に感謝。
犬のココに感謝。
庭の野菜に感謝。
旨いビールに感謝。
お腹一杯食べられる事に感謝。
犬の散歩に来られる事に感謝。
そういったことをあらためて気づかせてくれた居眠り運転の相手に感謝、せっかく拾った命だ、いいクリスマスホリデーを過ごしてくれ。
天と地に感謝。
守護神と護ってくれた母親に感謝。
この世の全ての物事、ワンネス。そして自分もその一部であるということに感謝。
今日の締めの一句
護られて 生きる喜び ありがたや
マウントクックからお客さんを乗せてクライストチャーチへ向う仕事だった。
この時期はクリスマスホリデーが始まる時で、国道も混む。
ボートやトレーラーハウスを牽引した、『さあ今からホリデーだ』という車も多い。
国道1号線へ出て、アシュバートン付近の長い直線道路、僕はお客さんにこの国の野菜とエネルギーの関係などといった話をしていた。
対向車がふらっとセンターラインをはみ出した。
「?」と思いアクセルを緩めた。
対向車はなおもフラフラと近寄って来た。
車内では全員が息をのむ。
「おいおい、どこまで来るんだよ」と思ったが向こうは進路を変えず、こちらの道を完全にふさいでしまい、なおも寄って来る。
100キロ近いスピードで走っている車だ。
いきなり急ハンドルを切って路肩の草むらに載せたら横転するかもしれない。
僕は妙に冷静に片輪を草むらにつっこませ、右側のタイヤをアスファルトぎりぎりに乗せその車をやり過ごした。
「はあああ」
大きく息を吐いた。
助かった。
今、考えても不思議なのだが、ブレーキは踏まなかった。
いや、無意識のうちに軽くブレーキはかけたかもしれないがよく覚えていない。
50キロで走っていれば急ブレーキで何とかなるかもしれないが、ここは100キロで対面通行だ。
急ブレーキで何とかなる問題ではない。
急ブレーキを踏んでいたら衝突、もしくは横転していただろう。
その時は車が慣性の法則にしたがい進むのを、コントロールを失わないようにするのに夢中だった。
クラクションなど鳴らす余裕はなかった。
今、冷静に考えてもその時の僕の行動は正解だったと思う。
自分を誉めてやろう。「やるじゃん、俺。」
不思議と恐怖はなかった。
頭の一部は妙に冴えていて、「このまま行ける」と思った。
そして、護られている、とも思った。
サイドミラーで見るとその車は路肩に止まり、後続の車も止まっていた。
後ろの車も無事だったようだ。よかった。
居眠り運転だろう。
20代の僕だったら車を停め、そのドライバーを怒鳴りつけに行ったことだろう。
40半ばの僕は何事も無かったように車を走らせた。
不思議と腹は立たなかった。
過失は100%向こうにあるとはいえ、向こうも怖い思いをしたことだろう。
それで充分だ。
その人を責めたところで何も始まらない。
人を責めれば、自分も落としてしまう。
地獄に落ちろと言えば、その地獄に落ちるのは自分である。
人が人を裁くのではない。
天が人を裁くのだ。
大切なことは人を許す心である。
それよりも、自分と相手が無事だった事に感謝を感じた。
最悪のシナリオは死である。
僕たちは常に死と隣り合わせに生きている。
僕は死を恐れない。怖れないがいつかは死ぬのも知っている。
ただ未だ今は死ぬ時ではないと思う。
日本に父親がまだ生きているので、死ぬのはまだ僕の番ではない。
順番でいえば次は父だ。
父親には「ポックリ逝ってくれ」と常々頼んである。
父親が死んで、自分の番になるまで、先に逝った母親が僕を護ってくれる。
こうやって僕は大いなる力によって生かされている。
死なないにしても事故で怪我というものもある。
そうなれば、ツアー関係で働く周りの人も余計な仕事が増える。
医者だって仕事が増える。
警察だって仕事が増える。
車が壊れればそれを運んだり直したりという仕事も増える。
全てエネルギーの無駄使いだ。
そういう余計なエネルギーを使わずに済んだことにも感謝。
相手だってせっかくのクリスマスホリデーが台無しだ。
気を引き締めて運転する事だろう。
もしそこで反省しなくて、別の場所で事故を引き起こしたならばそれも天命。
そこまでは僕の知ったこっちゃない。
天が人を裁くだけだ。
少し走ると後続の車が追い抜いていった。
きっと一部始終を見ていたのだろう。
助手席の女の人が親指を立てて『Good』のサインを出したので僕も親指を立てて合図をした。
その車にはマウントオリンパスのステッカーが貼ってあった。
なんとなく嬉しかった。
空港近くになり僕は自分の死生観、そして当たり前に生きている喜びをお客さんに伝えた。
お客さんも怖い思いをしたが、納得してくれたようである。
そして無事お客さんを降ろし、一日の仕事を終えた。
家に帰ると女房が餃子を作って待っていた。庭のニラとシルバービートの餃子である。
この日の出来事を話し、ビールで乾杯をした。
あんな事があったからか、いつもよりビールは旨く、餃子も旨い。
家庭は笑い声が響き、犬のココがウロウロする。
食後、マウンテンバイクで犬の散歩にいつもの公園に行った。
だだっ広い空を見ながら以前出会った人との会話を思い出した。
「僕は今まで死にそうな目に何回もあっているんですが、それも守護神様が助けてくれたんでしょうか?」
「そうです。全部守護神が助けてくれています」
「その守護神様にお礼をしたい時はどうすればいいんですか?」
「言葉に出してお礼をしてください。それだけです」
「それだけ?」
「それだけです。言葉に出すということが大切です」
「はあ、そうですか」
今はその言葉が身にしみる。
ちなみに僕の守護神様は大国主命(おおくにぬしのみこと)である。
僕は手を合わせ唱えた。
「ダイコク様、今日は救っていただきありがとうございました。」
その守護神は自分の母親、先祖達、自然の中のもの全てと共に僕を護ってくれる。
当たり前に1日が終わった事に感謝。
旨いギョーザを作ってくれる、できた女房に感謝。
笑い声の響く家庭に感謝。
可愛い娘に感謝。
犬のココに感謝。
庭の野菜に感謝。
旨いビールに感謝。
お腹一杯食べられる事に感謝。
犬の散歩に来られる事に感謝。
そういったことをあらためて気づかせてくれた居眠り運転の相手に感謝、せっかく拾った命だ、いいクリスマスホリデーを過ごしてくれ。
天と地に感謝。
守護神と護ってくれた母親に感謝。
この世の全ての物事、ワンネス。そして自分もその一部であるということに感謝。
今日の締めの一句
護られて 生きる喜び ありがたや