日本人
2014-04-25 | 日記
最後に日本に帰ったのはいつの頃だったか。
そう、あれはジャパントリップの時だ。
http://blog.goo.ne.jp/hijiri_1968/e/b5c06ccaf37bd6b930a9e4bdc8297270
久しぶりに読み返してみたが、なかなかの物だな。
この話が2006年だからもう8年前になるか。
こんな事を思い出したのも昨日ブラウニーから電話があって、「又オマエと一緒に日本に行きたいぜ、兄弟。」みたいな事を言われたからだ。
日本に行きたくない、と言えば嘘になる。
僕もたまには里帰りして家族や友達に会ったり美味しい物を食べたり色々なものを見たい。
ローカル線で駅弁でも食べながら山奥の温泉などに行ってみたい。
ブラウニーは一緒にスキーに行きたいようだし、聞きしに勝る北海道のパウダースノーを滑ってみたい。
なんと言っても僕は日本のパウダーは新潟の重い雪しか知らないのだから。
だが何故か今はその時ではない気がする。
日本に行かないから不幸せか?と問われてもそれは違う。
お客さんがわざわざ日本から純米吟醸のお酒を送ってくれたり、昔ながらの製法の本物の醤油を送ってくれたりする。
実家で作っているというお米もいただき、それを土鍋で炊いて我が家の産みたて卵で卵かけご飯なぞ超が付くぐらいのご馳走である。
ニュージーランド産大豆と海の塩で作った、混ぜ物無しのニュージーランド産の味噌。
わかめも最近ではニュージーランドで採れる。
我が家でも日本のきゅうり、日本の茄子を始め、長ネギ、ごぼう、大根、シソ、みょうが、三つ葉、ふき、こんにゃく芋など日本の野菜を育てている。
食べ物に関しては、場合によっては日本よりしっかりした和食を食べているかもしれない。
さすがに生のシラスや生の桜えびは無いし駿河名物の黒はんぺんもない。
ちなみに僕はずーっとはんぺんとは黒いものだと思っていた。
知らない人の為に書くが、黒と言っても真っ黒ではなく色は灰色でちょうどつみれのような感じだ。
ああ、こうやって書いていたらおでんに入っているはんぺんを食べたくなったな。
静岡では駄菓子屋におでんがあって味噌ダレをつけて食べるのだ。
子供の頃はひとつ30円ぐらいだったが今ではいくらぐらいするのだろう。
それからはんぺんのフライ、これもたまりませんな。
サクットした衣の中から黒はんぺん独特の魚の味、そこにソースがからんで・・・。ああたまらん。
こんなのを酒のつまみに居酒屋で一杯やってると、そこの大将が「メニューには書いてないけど桜えびの生があるよ」なんて出してくれたりしてね。
エビのひげのちくちくするような感覚の中からエビ独特の甘さが口の中にほろり。そこに日本酒をちびり。
ああ、春の味覚だなあ。日本人に生まれてよかった。
などと妄想に浸ってしまう。
まあ無いものをあげていったら、それこそきりがない。
何が無い、と思うか。
何がある、と思うか。
その違いだろう。
このジャパントリップの時に感じた日本人としての芯。
それは茶の湯のもてなしの心でもあるし、食べ物を粗末にしない心でもある。
四季折々で変わる自然の中、長い間暮らしてきた八百万の神の心からくる自然観。
道端に咲いている一輪の花を愛でる禅の教え。
そういったもろもろの事から成る、人間としてどうあるべきかという問い。
自分で言うのもなんだが、このあたりを掴んでいるので日本に帰らなくてもいいかな、という気がする。
日本に毎年里帰りをする人もいるが、それを責める気ももちろんない。
人は人であり、自分は自分である。
僕は自分を分析して、人と比べることがほとんどない。
悪い言い方をすれば、自分の道を突っ走っているとも言える。
これは自分の人生観から来るライフスタイルなので、まあしゃあないやんという感じか。
日本に居なくても、往々なところで日本を感じることはできる。
それはもう日本とか外国とかを越えた、自然の中で、地球上で、人間の在り方という永遠のテーマへ繋がるものだ。
そして全体を見て自分に戻り、人として真っ直ぐに明るく正しく楽しくやっているかとチェックする。
こうなってくると何処にいるかというものではなく、どうあるべきかということになってくる。
前回の話で死ぬ事に意味があり、同じ分だけ生きる事に意味がある、と書いた。
似たような話だが、ニュージーランドにいることに意味はあり、日本にいるならば日本にいる意味がある。
それは各自で違うので人と比べてもどうしようもない。
知り合いのガイドでどうしてもニュージーランドのビザが取れなくて日本に帰った人がいた。
その人と話をして直感で感じた。
この人には日本でやるべきことがある。
彼がニュージーランドを好きだという気持ちはひしひしと伝わるが、今はその時ではないなと。
将来どういう形でか分からないがこの地に戻ってくるだろう。その時には違う発見が必ずある。
そのまま居続けていたら見えない何か、自分だけの財産をその時に手に入れるであろう。
そんな話をして彼を送り出した。
別の友達のガイドは申請をしてわずか1ヶ月で永住権を取った。
その人にはニュージーランドでやるべき事があるのだろう。
表面だけ見れば簡単に取った人は、取れなかった人から見ればラッキーで羨ましく勝ち組かもしれない。
だがそれはうわべだけの話だ。
僕はその奥を見る。
そこには両方とも何らかの意味がある。
どちらが勝ちでも負けでもない。
問題があるとしたら比べるという表面だけ見る態度であろう。
こんな偉そうに書くが、自分の事というのは一番見えにくいものである。
僕は自分がこの先にどこに向かっているのかまだ分からない。
分からないまま進むのも、それまた人間。
ただ方向性は間違っていないと思うので、不安や怖れや怯えは無い。
日本人としての感性を持ちながら、この国をガイドするというのが自分がやるべきことだと思っている。
森羅万象に感謝をしながら、野菜を作り鶏を育てるのも自分がやるべきことだ。
こうやってたわ言をブログに書くのも、自分がやるべき事・・・かな?
締めの一句
ブログ書き 故郷を思ふ 日本人
そう、あれはジャパントリップの時だ。
http://blog.goo.ne.jp/hijiri_1968/e/b5c06ccaf37bd6b930a9e4bdc8297270
久しぶりに読み返してみたが、なかなかの物だな。
この話が2006年だからもう8年前になるか。
こんな事を思い出したのも昨日ブラウニーから電話があって、「又オマエと一緒に日本に行きたいぜ、兄弟。」みたいな事を言われたからだ。
日本に行きたくない、と言えば嘘になる。
僕もたまには里帰りして家族や友達に会ったり美味しい物を食べたり色々なものを見たい。
ローカル線で駅弁でも食べながら山奥の温泉などに行ってみたい。
ブラウニーは一緒にスキーに行きたいようだし、聞きしに勝る北海道のパウダースノーを滑ってみたい。
なんと言っても僕は日本のパウダーは新潟の重い雪しか知らないのだから。
だが何故か今はその時ではない気がする。
日本に行かないから不幸せか?と問われてもそれは違う。
お客さんがわざわざ日本から純米吟醸のお酒を送ってくれたり、昔ながらの製法の本物の醤油を送ってくれたりする。
実家で作っているというお米もいただき、それを土鍋で炊いて我が家の産みたて卵で卵かけご飯なぞ超が付くぐらいのご馳走である。
ニュージーランド産大豆と海の塩で作った、混ぜ物無しのニュージーランド産の味噌。
わかめも最近ではニュージーランドで採れる。
我が家でも日本のきゅうり、日本の茄子を始め、長ネギ、ごぼう、大根、シソ、みょうが、三つ葉、ふき、こんにゃく芋など日本の野菜を育てている。
食べ物に関しては、場合によっては日本よりしっかりした和食を食べているかもしれない。
さすがに生のシラスや生の桜えびは無いし駿河名物の黒はんぺんもない。
ちなみに僕はずーっとはんぺんとは黒いものだと思っていた。
知らない人の為に書くが、黒と言っても真っ黒ではなく色は灰色でちょうどつみれのような感じだ。
ああ、こうやって書いていたらおでんに入っているはんぺんを食べたくなったな。
静岡では駄菓子屋におでんがあって味噌ダレをつけて食べるのだ。
子供の頃はひとつ30円ぐらいだったが今ではいくらぐらいするのだろう。
それからはんぺんのフライ、これもたまりませんな。
サクットした衣の中から黒はんぺん独特の魚の味、そこにソースがからんで・・・。ああたまらん。
こんなのを酒のつまみに居酒屋で一杯やってると、そこの大将が「メニューには書いてないけど桜えびの生があるよ」なんて出してくれたりしてね。
エビのひげのちくちくするような感覚の中からエビ独特の甘さが口の中にほろり。そこに日本酒をちびり。
ああ、春の味覚だなあ。日本人に生まれてよかった。
などと妄想に浸ってしまう。
まあ無いものをあげていったら、それこそきりがない。
何が無い、と思うか。
何がある、と思うか。
その違いだろう。
このジャパントリップの時に感じた日本人としての芯。
それは茶の湯のもてなしの心でもあるし、食べ物を粗末にしない心でもある。
四季折々で変わる自然の中、長い間暮らしてきた八百万の神の心からくる自然観。
道端に咲いている一輪の花を愛でる禅の教え。
そういったもろもろの事から成る、人間としてどうあるべきかという問い。
自分で言うのもなんだが、このあたりを掴んでいるので日本に帰らなくてもいいかな、という気がする。
日本に毎年里帰りをする人もいるが、それを責める気ももちろんない。
人は人であり、自分は自分である。
僕は自分を分析して、人と比べることがほとんどない。
悪い言い方をすれば、自分の道を突っ走っているとも言える。
これは自分の人生観から来るライフスタイルなので、まあしゃあないやんという感じか。
日本に居なくても、往々なところで日本を感じることはできる。
それはもう日本とか外国とかを越えた、自然の中で、地球上で、人間の在り方という永遠のテーマへ繋がるものだ。
そして全体を見て自分に戻り、人として真っ直ぐに明るく正しく楽しくやっているかとチェックする。
こうなってくると何処にいるかというものではなく、どうあるべきかということになってくる。
前回の話で死ぬ事に意味があり、同じ分だけ生きる事に意味がある、と書いた。
似たような話だが、ニュージーランドにいることに意味はあり、日本にいるならば日本にいる意味がある。
それは各自で違うので人と比べてもどうしようもない。
知り合いのガイドでどうしてもニュージーランドのビザが取れなくて日本に帰った人がいた。
その人と話をして直感で感じた。
この人には日本でやるべきことがある。
彼がニュージーランドを好きだという気持ちはひしひしと伝わるが、今はその時ではないなと。
将来どういう形でか分からないがこの地に戻ってくるだろう。その時には違う発見が必ずある。
そのまま居続けていたら見えない何か、自分だけの財産をその時に手に入れるであろう。
そんな話をして彼を送り出した。
別の友達のガイドは申請をしてわずか1ヶ月で永住権を取った。
その人にはニュージーランドでやるべき事があるのだろう。
表面だけ見れば簡単に取った人は、取れなかった人から見ればラッキーで羨ましく勝ち組かもしれない。
だがそれはうわべだけの話だ。
僕はその奥を見る。
そこには両方とも何らかの意味がある。
どちらが勝ちでも負けでもない。
問題があるとしたら比べるという表面だけ見る態度であろう。
こんな偉そうに書くが、自分の事というのは一番見えにくいものである。
僕は自分がこの先にどこに向かっているのかまだ分からない。
分からないまま進むのも、それまた人間。
ただ方向性は間違っていないと思うので、不安や怖れや怯えは無い。
日本人としての感性を持ちながら、この国をガイドするというのが自分がやるべきことだと思っている。
森羅万象に感謝をしながら、野菜を作り鶏を育てるのも自分がやるべきことだ。
こうやってたわ言をブログに書くのも、自分がやるべき事・・・かな?
締めの一句
ブログ書き 故郷を思ふ 日本人