モツ煮
2014-05-16 | 食
秋が深まり体が冷えると温かい物が恋しくなる。
何かむしょうに根菜が食べたくなり突発的にモツ煮を作った。
昔は肉屋で「モツを買いたい」と言ったら「そんなもの食うのか」と笑われたが、今では近所のアジア系の肉屋でモツだってスジ肉だってその他いろいろ売っている。
モツは生なので何回も茹でこぼしアクを取る。
そしてしょうがとニンニク、昆布、隠し味に唐辛子を入れる。
今年は温室で唐辛子も育ててみたが、これがうまくいって夏が終わった今でも赤い実をつけている。
取りたての唐辛子はピリッと辛くて旨い。
大根は植えたばかりでまだ小さいので買ったが、ニンジンとゴボウ、長ネギにシルバービートは庭からである。
家のゴボウは泥臭さがない。
あまりにアクがなくて存在感がないぐらいだ。
花が咲いたら種を収穫しようと思っていたのだが花芽が出なかったので掘ってしまった。
今年は一株だけだったが来年はもう少し多めに育ててもよいな。
人参は大根と一緒に育てたもの。
大根は花芽が出始めたときに収穫をして、周りの人参はそのまま育てた。
ネギもサビ病になったが、なんとか上手く育ってくれた。
これからは花芽が出るのでそろそろ収穫の時期だ。
ネギを収穫したらその場所はニンニク畑となる。
シルバービートは相変わらず雑草のようにどこでもある。
そして我が家のシルバービートはアクがないので、菜っ葉のところだけほうれん草のようにも食べられる。
鉄分の多い野菜だし、シルバービート万々歳だ。
そういった庭の野菜を間引きを兼ね収穫。
それらを煮込んだモツ煮である。
長ネギの白い所を細かく刻んでモツ煮の上にふわりと乗せて七味唐辛子をパラリ、そしていただきます。
これは旨いぜよ。なんまらうまくて、でらうみゃーで、バカうまいずらよ。
やはりモツ煮は寒い時期のものだな。
春爛漫の料理ではない。
季節にあわせて料理を楽しむなんてのは四季の移り変わりがある国なればこそ。
これが日本の文化であり心である。
ニュージーランドは南と北の違いはあれど緯度も日本と同じぐらいで季節の変わり方も日本に似ている。
気候風土というものは文化と密接な繋がりがある。
常夏の場所で汗をダラダラかきながら食うモツ煮よりも、外で木枯らしが吹く中で食うモツ煮。
熱燗なんかチビリとやったりしてね。
やっぱこれでしょう。
そういった季節を感じる心。
これが大切だなと思う。
寒いのがイヤだという人がいて、それはそれで君の立場で言えば君は正しいからいいでしょう。
僕は寒いからこそ感じる物があると思う。
無性に、本当に突発的にモツ煮を食いたくなったのもその時に寒かったから、という単純明快公明正大の理由があったからだ。
みんな旨い旨いと喜んで食べてくれて、ブログのネタにもなった。
そうそう、この季節になるとカボチャが安くなってくる。
かぼちゃは保存が利くので一年中あると思いがちだが、かぼちゃが旨いのは今だ。
夏の間に育ったかぼちゃの葉っぱが枯れる頃に収穫して熟させる。
我が家もコンポストから出たかぼちゃが育ち、夏の終わりに収穫をしてガレージに放り込んでおいた。
かぼちゃのへたが茶色くなりかける今が食べごろ。
旬である。
旬の物は旨い。
たくさんできるので安い。
季節の変化と共に体も変わる。
その体に必要な栄養が旬の野菜にある。
柿が赤くなると医者が青くなる、とは昔からの日本の言葉で、トマトが赤くなると医者が青くなるという言葉もある。
それぐらい旬の物を食べていれば病気にもならないということだ。
人間の体というのは常に変化をしている。
女の人には月のものなんてのもあるし(男にももちろん月の影響はあるけどガサツなので気づかない)季節によって体も変わる。
その季節に合う物を体が求める。
それが旬の物だ。
自分の体、季節ごとに採れる物、そしてその味付け、そういったものが全部まとまっての和食の文化なのである。
それはここニュージーランドに居ながらにしても、自分の心次第でしっかりと感じることはできる。
そして戻るところは庭の野菜に感謝。
僕達の血や肉になり、僕らが食べなかった部分は土に還り、また巡る。
野菜たちよ、ありがとう。
またお願いしますね。
何かむしょうに根菜が食べたくなり突発的にモツ煮を作った。
昔は肉屋で「モツを買いたい」と言ったら「そんなもの食うのか」と笑われたが、今では近所のアジア系の肉屋でモツだってスジ肉だってその他いろいろ売っている。
モツは生なので何回も茹でこぼしアクを取る。
そしてしょうがとニンニク、昆布、隠し味に唐辛子を入れる。
今年は温室で唐辛子も育ててみたが、これがうまくいって夏が終わった今でも赤い実をつけている。
取りたての唐辛子はピリッと辛くて旨い。
大根は植えたばかりでまだ小さいので買ったが、ニンジンとゴボウ、長ネギにシルバービートは庭からである。
家のゴボウは泥臭さがない。
あまりにアクがなくて存在感がないぐらいだ。
花が咲いたら種を収穫しようと思っていたのだが花芽が出なかったので掘ってしまった。
今年は一株だけだったが来年はもう少し多めに育ててもよいな。
人参は大根と一緒に育てたもの。
大根は花芽が出始めたときに収穫をして、周りの人参はそのまま育てた。
ネギもサビ病になったが、なんとか上手く育ってくれた。
これからは花芽が出るのでそろそろ収穫の時期だ。
ネギを収穫したらその場所はニンニク畑となる。
シルバービートは相変わらず雑草のようにどこでもある。
そして我が家のシルバービートはアクがないので、菜っ葉のところだけほうれん草のようにも食べられる。
鉄分の多い野菜だし、シルバービート万々歳だ。
そういった庭の野菜を間引きを兼ね収穫。
それらを煮込んだモツ煮である。
長ネギの白い所を細かく刻んでモツ煮の上にふわりと乗せて七味唐辛子をパラリ、そしていただきます。
これは旨いぜよ。なんまらうまくて、でらうみゃーで、バカうまいずらよ。
やはりモツ煮は寒い時期のものだな。
春爛漫の料理ではない。
季節にあわせて料理を楽しむなんてのは四季の移り変わりがある国なればこそ。
これが日本の文化であり心である。
ニュージーランドは南と北の違いはあれど緯度も日本と同じぐらいで季節の変わり方も日本に似ている。
気候風土というものは文化と密接な繋がりがある。
常夏の場所で汗をダラダラかきながら食うモツ煮よりも、外で木枯らしが吹く中で食うモツ煮。
熱燗なんかチビリとやったりしてね。
やっぱこれでしょう。
そういった季節を感じる心。
これが大切だなと思う。
寒いのがイヤだという人がいて、それはそれで君の立場で言えば君は正しいからいいでしょう。
僕は寒いからこそ感じる物があると思う。
無性に、本当に突発的にモツ煮を食いたくなったのもその時に寒かったから、という単純明快公明正大の理由があったからだ。
みんな旨い旨いと喜んで食べてくれて、ブログのネタにもなった。
そうそう、この季節になるとカボチャが安くなってくる。
かぼちゃは保存が利くので一年中あると思いがちだが、かぼちゃが旨いのは今だ。
夏の間に育ったかぼちゃの葉っぱが枯れる頃に収穫して熟させる。
我が家もコンポストから出たかぼちゃが育ち、夏の終わりに収穫をしてガレージに放り込んでおいた。
かぼちゃのへたが茶色くなりかける今が食べごろ。
旬である。
旬の物は旨い。
たくさんできるので安い。
季節の変化と共に体も変わる。
その体に必要な栄養が旬の野菜にある。
柿が赤くなると医者が青くなる、とは昔からの日本の言葉で、トマトが赤くなると医者が青くなるという言葉もある。
それぐらい旬の物を食べていれば病気にもならないということだ。
人間の体というのは常に変化をしている。
女の人には月のものなんてのもあるし(男にももちろん月の影響はあるけどガサツなので気づかない)季節によって体も変わる。
その季節に合う物を体が求める。
それが旬の物だ。
自分の体、季節ごとに採れる物、そしてその味付け、そういったものが全部まとまっての和食の文化なのである。
それはここニュージーランドに居ながらにしても、自分の心次第でしっかりと感じることはできる。
そして戻るところは庭の野菜に感謝。
僕達の血や肉になり、僕らが食べなかった部分は土に還り、また巡る。
野菜たちよ、ありがとう。
またお願いしますね。
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