あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

毒を吐く

2012-01-12 | 日記
新年明けてそうそうだが今回は毒を吐く。
年明けのある酒の席である人がこう言った。
「ニュージーランドには美味しいソーセージがないね。みんな白くてブヨブヨで臭くて」
この言葉にボクはカチンときた。
この国に美味いソーセージが無いだと?
その人は長くこの国にいるようだが、スーパーで売られているソーセージしか食ったことが無いのだろう。
ボクは自分のツアーでブロークンリバーにお客さんと行く時にはソーセージを出す。
それは近くの肉屋で作っているCheese kranskyというやつだ。
これは美味い。自分が美味いと思うやつだからお客さんにも出す。友達にも出す。
お客さんも友達も皆ウマイウマイと喜んで食べてくれる。
皮はパリっと焼け、中はあら引き肉の食感。燻製にされているので燻された肉の香りが良い。
一般のソーセージはセージというハーブを肉の匂い消しに使う。
この匂いがダメな人もいるのだろう。僕もそれほど好きではないので自分ではあまり買わない。
その人に「この国は・・・」と言われてカチンと来たのは、自分が普段ウマイと思って食っているソーセージを、ウマイソーセージを作っている肉屋を、それを生み出すニュージーランドという国を侮辱されたかのように感じたからだ。
何より気に入らないのは、断片的な情報で「この国は」と全体を把握する態度である。
これは今までも感じていたことである。

よくツアーのお客さんがこう言うのだ。
「この国はどこへ行っても日本人だらけね」
大体そう言う人は、クライストチャーチから入ってテカポ、マウントクック、クィーンズタウン、そしてミルフォードというこの国の王道のようなコースを廻る。
今あげた場所では確かにどこに行っても日本人は働いているし、日本人のお客さんも多い。
だがそこからちょっと外れれば日本人はどこにもいない。
それどころかさらに外れれば日本人どころか、人間がいないというような場所がほとんどだ。
自分達が行く場所が、自分達を含め日本人だらけなのだ。
それを「この国は」と言い切ってしまう。
これは一体なんなのだろう。
同じようなことはまだある。
南の外れ、インバーカーギルという町からスタートするツアーがあった。
街を出て1時間ぐらい走っただろうか。
窓の外は延々と牧場が続く。
お客さんがこういう質問をした。
「この国では野菜は作っていないの?」
「それはですね、日本を初めて訪れた人が北海道へ着いて牧場の中を1時間ぐらい走って『この国ではお米を作ってないの?』と聞くようなものですよ」
我ながら大人気ないとは思うがそう答えてしまった。
同行した添乗員があわてて「北の方では野菜も作っています」とフォローしていた。

昔ある王様が盲目の人を何人も集めて象を触らせたそうな。
鼻を触った人は言った。
「象とは細長い柔らかい物がぐにゃぐにゃ動く動物です」
耳を触った人は言った。
「象とは薄くて平らな動物です」
体を触った人は言った。
「象とは壁のような動物です。」
足を触った人は言った。
「象とは木の幹のような動物です」
断片的な情報で全体を把握するとはこういうことだ。

ぼくはこれは最近流行りのグローバリズムにも関係があると思う。
全てを均一に均してしまう考えは危険である。
日本でも小さな市町村は合併で大きな街に含まれてしまっている。
地域性というものはどんどん薄まり、どこに行っても同じ街ができあがる。
文化の崩壊だ。なぜなら文化というものは狭い局地的な場所で生まれるものだからだ。
全体を把握しようとするには均一な方が楽だ。一部だけ見ればいいのだから。
だが実際には違う。
ワインの専門家の話を聞いたが、道路一本挟んだ土地、わずか100m離れるだけでブドウの出来は違いワインの味は変わってくるのだそうだ。
多様性。
それを認めた上で自分が得た情報はほんの一握りのものと知る。

偉そうに言うが以前の僕もそうだった。
何年もこの国の冬山で過ごし、この国を知った気になっていた。
ある時、夏山を歩き感動して涙を流した。
同時に自分がこの国の山について何も知っていないことに気が付いた。
それ以来、感動は感動を産み、行く先々で「まだこんなところがあったのか」という思いが次から次へと出てくる。
同じ場所でも、何回も行った場所でも、季節や時間が変われば違う面を見せてくれる。
それぐらいにこの国は深い。
その思い入れがあるので、「この国は・・・」と簡単に決め付けられると余計に腹が立つ。

自分が知った情報とは、ほんの些細なものであり、それさえも見方によっては簡単に変わってしまう。
バケツを逆さから見れば、底が無く蓋が開かない入れ物だ。
一部の情報にとらわれることなく、広い視野で物を見ていきたいと僕は思う。
それを心で感じた時に初めて全体像というのは見えてくるのではないか。
誰の言葉か忘れてしまったが、昔から言われている言葉にもある。
『自分が知っていることは、自分は何も知らないということである。』
「この国は・・・」と知った気にならない自分への戒めも含め、今回は毒を吐いた。
そして自分が何も知らないのを知りつつ、これからも僕は生きていくことだろう。
知らないことを知ろうとするのは、人間の証だからだ。
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6 コメント

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君は君、僕は僕って感じ? (かな)
2012-01-12 05:09:29
確かに、日本のソーセージとこっちのソーセージの味違うからね。日本の味に慣れちゃうとこっちのソーセージのことそう思えるのかもしれないし。

ひっぢさんは、そんな風に言われてムカつくくらい、それだけNZを一途に愛しているんだね^^。

自分が自国で経験した事のないことはもちろん、初めて行った国に滞在して経験したことは、その人にとってその国の強烈な印象になって残るんだろうけど、わたしにもそういう風に判断するところあるかもしれないな。気をつけよっと♪
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待ってました!聖節 (Thomas)
2012-01-12 05:50:28
あけましておめでとう。
自分のブログをアップできず皆様のページを見ているThomasです。
ガイドをしていく上で避けられないこの手のカチン、まったくもって賛同です。
罠にかかったストウトを見て「きゃぁ残酷、かわいそう」と言って僕らTrapperをむしろ軽蔑の目で見る旅行者もいる。
宣言してもいい、Trapperの誰一人として動物を殺すことに喜びをかんじている奴はいない。僕ら人間が壊してしまった森に侘びを入れているのです。
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Unknown (にしやん)
2012-01-12 08:20:03
ひとは、合理化、単純化の追及が、多様性と呼ぶのか無秩序、ランダムと呼ぶのか、本来そんなはずのものの中に、パターンを見いだしたい、いや、見いださずにはいられない、必死にパターンを見いだそうとすらしているかもしれない。

うまいとかまずいとか、よいとかわるいとか、主観的でしかないものも、○○は○○である、とすれば頭の貯蔵庫にしまいやすいし、無知、未経験の空白部分があることへの不安を減らしていく心理かもしれませんね。

しかし断片的部分に切り刻みすぎて、単純どころか、むしろ単純な感動を感じることをより難しくしてしまっているように思います。

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Unknown ()
2012-01-13 02:42:51
かなちゃん

セージという香草は肉の匂いを消す役目もあるが、人の好みもある。
そのソーセージが気に入らなければ食べなければ良い。ただそれだけ。
人のふり見て我がふり直せ、だね。

そうそう1月後半クィーンズタウンに行きます。
その時にまた会おう。
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待ってたか。 ()
2012-01-13 03:05:01
Thomas

聖節、気に入ってくれたかい。
お客さんにストートトラップや外来の生物の話をしても「あんなに可愛いのに可哀そう」という人は多い。
そこでまた余計なことをポロリ。
「人間の見た目での可愛さやきれいさと、この地でその動植物が与える影響とは別のものです。見た目でのきれいさとか可愛さに惑わされてはいけません」
あーあ、また言っちゃった。

表面だけしか見ない人(動物愛護主義も含む)には君の仕事は理解されないだろう。
ただボクは君がやっていることの大切さを知っている。
動物に罪はない。
罪があるとすれば人間だが、当時の価値観ではそれは悪ではなかった。
言うなれば人間の愚かさだろう。
君は人類が犯した罪の尻拭いをしているのだ。
そんな仕事をしている友を誇りに思う。

そうそう今度テアナウにも行きます。
会えるかな?
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いやはや ()
2012-01-13 03:28:12
にしやん

人間は分類という作業が好きなのではないかと思う。
カテゴリーというもので整理したいんだろうね。
そこに当てはまらないものがあると、落ち着かない。
無知、未経験の空白部分があることへの不安。
上手い言い回しですな。

だけど断片化しすぎると全体像が見えなくなる。
単純な感動が感じられなくなってしまう。
いやはや、人間って面白いですね。
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