あーあ、負けちゃったよ。悔しいなあ。
思い出したのは95年に南アフリカとやった決勝である。
今は死んでしまったが、ジョナーロムが居た時の話だ。
その時のオールブラックスは強くて大会前の下馬評も最高、優勝候補の筆頭。
決勝トーナメントでもロムが相手を踏み潰して突進するのを、僕らはメスベンのパブでビールを飲みながら喜んで見たものだった。
決勝戦ではまさに互角の勝負で、フルタイムでも決まらずに延長戦になり、相手のドロップゴールで負けた。
静まり返ったパブを後に、当時のスキー仲間と一緒にトボトボと歩いて帰ったのを覚えている。
その時と同じぐらい悔しいのは、僅差の勝負だったからなのか、当時の自分の状況が思い出させるのかどうか分からない。
負けて悔しいというのは当たり前の感情である。
勝てば嬉しいし負ければ悔しい。
それが勝負の世界の掟だ。
負けて悔しくなかったら、勝った方もうれしくない。
陰陽や正負のように両方あって成り立つものである。
それにしても悔しいというのが本音だが、今回のオールブラックスはよくやったと思う、
大会前からあまり出来が良くないなどと言われたが、きっちりと決勝まで残り、あの試合である。
本当によくやった。
選手だけでなくコーチやサポートの人など全てに「おつかれさん」と言ってあげたい。
これはオールブラックスだけでなく南アフリカのチームにも良く頑張ったと言いたい。
試合では色々あったがどちらが勝ってもおかしくない、歴史に残るような互角の勝負であった。
そして最後の最後は運だろうとも思った。
ラグビーのボールは楕円形なので、たまにボールが不規則にバウンドする。
それが味方側に来るのか相手側に行くのかは運だ。
逆にそこが面白いとも言えよう。
今回の試合でもバウンドしたボールが相手側に転がる場面も何回かあったのは運がなかったから。
キックを外したのも運であればボールが滑ったのも運だし、反則を取られたのも運、審判の判定も運である。
運も実力のうち、ということわざがあるが、この一言に尽きるのではないか。
運だけで全てが勝てるほど甘くはないが、実力が互角だったら最後は運というものが勝負を決めるのはどのスポーツも同じだ。
選手をはじめ関係者のコメントは興味深く、審判や判定に対して口を閉ざしている。
今の世の中、否定的な事を言えばすぐに叩かれる。
心の中で「このクソ野郎」と思っても表面に出す事は許されない。
これまた代表選手の宿命だ。
ここから先は僕の個人的な意見を語る。
一言で言えばゲームがつまらなくなったな。
これは時代の流れと言い切ってしまえば、それに尽きる。
一体、サッカーやラグビーは何人でやるものなのか、という基本的な問いを投げかけよう。
サッカーなら11人だしラグビーなら15人、というのが当たり前の答えだ。
これは自分のチームしか考えていない答えである。
実際には自分のチームだけでは試合は成り立たない、相手チームも必要である。
そして主審一人と副審二人も含めて、サッカーなら25人ラグビーなら33人でゲームを行う。
実際には監督や控えの選手やメディカルやボールボーイなどもいるのだが、話がとっちらかってしまうのでグラウンド上で動いていてゲームを作っている人を考える。
自分はラグビーよりサッカーの方が詳しいので、ここからはサッカーの話を基に進めるが、言いたい事はサッカーでもラグビーでも共通することだ。
先にも書いた通り、ゲームは味方11人と相手11人、そして審判3人で行う。
この審判次第でゲームは面白くもなるし詰まらなくもなる。
これは審判の技能、体力、判断力、人格にも関わることなので、上手い審判と下手な審判がいるのは仕方がない。
どのスポーツでも際立って上手い選手とそこそこの選手がいるように、審判だって同じだ。
上手い審判が裁くとゲームの流れがスムーズで見ていて気持ちが良いが、下手くそな審判は試合の流れをブチブチと切りゲーム自体がつまらなくなる。
ここでもう一つ大切なことで『流れ』という概念である。
サッカー、ラグビーに限らず、どのスポーツでも試合の流れというものは存在する。
この時間帯はこちら側に有利な流れであるとか、サッカーで言えば試合が動く時間帯であるとか、そういう漠然としたものだ。
この流れが途切れないのがサッカーでありラグビーであり、それを見るのが楽しかった。
昨今ではすぐに時間を止めてしまうようになったが、昔はけが人の処置の時もケンカをしている時でも時間は動いていた。
勝つために時間稼ぎなんてことも昔はよくあったが、それはどのチームでも多かれ少なかれある。
これがバスケットボールやアメリカンフットボールやアイスホッケーのように、審判が笛を吹いた瞬間にプレーが止まり時間も止まるというスポーツと混合してはいけない。
あれはあれで実にアメリカ的だが時間との戦いみたいな感じでその面白さも存在する。
それとは真逆で、滅多なことでは時計を止めないというのが、サッカーやラグビーといういわゆるフットボールの醍醐味だった。
そして軽い反則があった時に反則を受けた方のチャンスが続けば、そのまま流すというのがよくあった。
そもそもゲームにおいて主審の判断が絶対であり、副審は主審が見えにくい角度をサポートする立場だ。
だからこそ主審の力量が試されるとも言えよう。
主審が黒と言えば周りが何を言おうが黒なのである。
もちろん悪質な反則にはゲームを止めてカードを出すが、上手い審判はその辺のさじ加減が絶妙なのだ。
86年にメキシコで開催されたサッカーワールドカップはマラドーナの活躍でアルゼンチンを優勝に導いたが、伝説になっている神の手の話をする。
戦争で負けたイングランド相手にサッカーでは負けないぞというアルゼンチンの因縁の対決。
ゴール前にフワっと上がったボールにマラドーナが走り込みキーパーと1対1になった。
キーパーとクロスになる直前でマラドーナが頭で押し込みゴール。
実際にはマラドーナが左手を使っていたのだが、頭のすぐ横でひじを曲げた状態だったので審判の位置からは見えなかった。
当然イングランドからは抗議があったが、主審は判定を曲げずにゴールはそのまま。
これは動画でも残っているが、明らかにハンドである。
だが当時は主審の判定は絶対だった。
後にこれが『神の手』と呼ばれることになるのだが、神の手をやったのは誰か?
当たり前の答えはマラドーナであるが、その瞬間に現場にいた人は3人。
マラドーナ、イングランドのキーパー、そして審判である。
この3人がいたからこそ神の手が生まれたのだ。
これが今だったらどうだ?
ビデオで色々な角度から撮ったものを検証して、実際にフィールドに立っていない人がそれを見て判断する。
主審はそれを聞いて、ノーゴールと宣言する。
つまり今のシステムでは今後『神の手』は現れない。
この話のタイトル、神はもういないとはそういうことだ。
僕はこの試合を高校生の時にテレビの生中継で見たけど、あの興奮は一生忘れない。
サッカーというスポーツが現場の人間で行われていた古き良き時代だ。
同じ大会で高田静夫という人が日本人では初めてワールドカップの主審を務めたが、堂々たる裁きっぷりだった。
Jリーグができるはるか以前の話であり、日本がワールドカップに出るなんて考えられない時代だった。
日本人でも選手としてでなく、審判として立派な人もいるんだな、と思ったことを覚えている。
世界のトップレベルの試合になると選手だけでなく審判の能力も求められるのである。
時代は流れ技術の進歩とともにスポーツの世界も変わっていく。
大きな試合ともなれば数多くのカメラが色々な角度から撮影をする。
審判のミスと呼べないような物、例えば主審の位置からは見えない角度のプレーは存在する。
そういったものもビデオカメラは写しだし、それが審判のミスとされてしまうこともある。
より公正にという目的でビデオでの検証が導入されたのも時代の流れというものか。
それによりサッカーやラグビーがつまらなくなった、というのが自分の個人的見解だ。
今回のラグビーワールドカップ決勝で一つのプレーを例えにだす。
オールブラックスのラインアウトでボールが落ちたかどうか微妙なプレーがあった。
ボールが落ちたらそこでプレーは止まり相手ボールのスクラムとなるが、落ちていなかったらプレーは続けられる。
試合の流れでも重要な局面だった。
実際にはボールが落ちそうになる前に南アフリカの反則があったのだが、審判はボールは落ちていないということでプレーは継続された。
オールブラックスはそこからパスをつなぎトライをして主審もそれを認めた。
その後でビデオ検証チームが、ボールは落ちていた、さらにはそれ以前に南アフリカに反則があったと主張があった。
確かにビデオで見ると反則もあったしボールも落ちている。
結果どうなったかというと、トライは無効となりいくつものプレーを巻き戻し最初の反則があった場所に戻りやり直しだ。
ちなみにラグビーでは反則をされた側がボールを持っていれば審判が「アドバンテージ」と宣言してプレーは続く。
そこで味方が反則をしたり、相手にボールを取られたりした場合には最初の反則のあった場所に戻り、そこから再スタートをする。
アドバンテージの時間が長くなったりすれば審判は「アドバンテージオーバー」と宣言して普通のゲームに戻る。
だからプレーを巻き戻して元の場所に戻るということはよくあるが、それはあくまで審判が「アドバンテージ」を宣言した場合であり、両チームもそれを考慮してプレーを続ける。
たとえここで相手にボールを取られても味方のペナルティに戻るという前提で、ギャンブル的に大きなプレーをすることもある。
それはそれでお互いに戦略というわけで、そこがラグビーというスポーツ独自の醍醐味とも言えよう。
今回の話はそれと別で、主審が「ノーノックオン」要はボールは落ちていないのでそのままプレーを続けろ、ということでアドバンテージではなく普通の状態で両チームともやって、その後オールブラックスがトライを決めたが、ビデオ検証チームがケチをつけたというわけだ。
応援しているチームのトライを取り消された僻みという感情はもちろんあるが、それより大きな意味がこのプレーにある。
これは試合の主導権が主審ではなく第三者になってしまったということだ。
現場に一番近くにいたのは主審だろ?
じゃあ主審の裁量に任せろよ。
例え主審がそのまま流しても、周りがそれを許さない構造になっている。
主審も「なんだなんだ、俺が一番近くで見てんだぞ、そこはガタガタ言わずに俺に任せろよ」と心の奥で思っているかもしれない思っていないかもしれない。
確実に言えるのはゲームがつまらなくなり、神の手は二度と現れないということだ。
なんとなくこの構造が今の社会の縮図になっているような気がするのだ。
人間が繰り広げる社会での流れ。
それとは別に時間だけが独立して動いている流れ、時間が社会をコントロールする仕組み。
現場でやっている人の判断を尊重せず、遠隔でコントロールする構造。
どれもが今の世の中で起きている事象ではないか。
そしてそれを外野でギャーギャー言う連中、このブログのように。
ここでこの長い文の最初に戻るが、勝負は勝ってナンボ。
何をどう偉そうに言おうが、勝ちは勝ちで負けは負け。
全ては負け犬の遠吠えなのである。
思い出したのは95年に南アフリカとやった決勝である。
今は死んでしまったが、ジョナーロムが居た時の話だ。
その時のオールブラックスは強くて大会前の下馬評も最高、優勝候補の筆頭。
決勝トーナメントでもロムが相手を踏み潰して突進するのを、僕らはメスベンのパブでビールを飲みながら喜んで見たものだった。
決勝戦ではまさに互角の勝負で、フルタイムでも決まらずに延長戦になり、相手のドロップゴールで負けた。
静まり返ったパブを後に、当時のスキー仲間と一緒にトボトボと歩いて帰ったのを覚えている。
その時と同じぐらい悔しいのは、僅差の勝負だったからなのか、当時の自分の状況が思い出させるのかどうか分からない。
負けて悔しいというのは当たり前の感情である。
勝てば嬉しいし負ければ悔しい。
それが勝負の世界の掟だ。
負けて悔しくなかったら、勝った方もうれしくない。
陰陽や正負のように両方あって成り立つものである。
それにしても悔しいというのが本音だが、今回のオールブラックスはよくやったと思う、
大会前からあまり出来が良くないなどと言われたが、きっちりと決勝まで残り、あの試合である。
本当によくやった。
選手だけでなくコーチやサポートの人など全てに「おつかれさん」と言ってあげたい。
これはオールブラックスだけでなく南アフリカのチームにも良く頑張ったと言いたい。
試合では色々あったがどちらが勝ってもおかしくない、歴史に残るような互角の勝負であった。
そして最後の最後は運だろうとも思った。
ラグビーのボールは楕円形なので、たまにボールが不規則にバウンドする。
それが味方側に来るのか相手側に行くのかは運だ。
逆にそこが面白いとも言えよう。
今回の試合でもバウンドしたボールが相手側に転がる場面も何回かあったのは運がなかったから。
キックを外したのも運であればボールが滑ったのも運だし、反則を取られたのも運、審判の判定も運である。
運も実力のうち、ということわざがあるが、この一言に尽きるのではないか。
運だけで全てが勝てるほど甘くはないが、実力が互角だったら最後は運というものが勝負を決めるのはどのスポーツも同じだ。
選手をはじめ関係者のコメントは興味深く、審判や判定に対して口を閉ざしている。
今の世の中、否定的な事を言えばすぐに叩かれる。
心の中で「このクソ野郎」と思っても表面に出す事は許されない。
これまた代表選手の宿命だ。
ここから先は僕の個人的な意見を語る。
一言で言えばゲームがつまらなくなったな。
これは時代の流れと言い切ってしまえば、それに尽きる。
一体、サッカーやラグビーは何人でやるものなのか、という基本的な問いを投げかけよう。
サッカーなら11人だしラグビーなら15人、というのが当たり前の答えだ。
これは自分のチームしか考えていない答えである。
実際には自分のチームだけでは試合は成り立たない、相手チームも必要である。
そして主審一人と副審二人も含めて、サッカーなら25人ラグビーなら33人でゲームを行う。
実際には監督や控えの選手やメディカルやボールボーイなどもいるのだが、話がとっちらかってしまうのでグラウンド上で動いていてゲームを作っている人を考える。
自分はラグビーよりサッカーの方が詳しいので、ここからはサッカーの話を基に進めるが、言いたい事はサッカーでもラグビーでも共通することだ。
先にも書いた通り、ゲームは味方11人と相手11人、そして審判3人で行う。
この審判次第でゲームは面白くもなるし詰まらなくもなる。
これは審判の技能、体力、判断力、人格にも関わることなので、上手い審判と下手な審判がいるのは仕方がない。
どのスポーツでも際立って上手い選手とそこそこの選手がいるように、審判だって同じだ。
上手い審判が裁くとゲームの流れがスムーズで見ていて気持ちが良いが、下手くそな審判は試合の流れをブチブチと切りゲーム自体がつまらなくなる。
ここでもう一つ大切なことで『流れ』という概念である。
サッカー、ラグビーに限らず、どのスポーツでも試合の流れというものは存在する。
この時間帯はこちら側に有利な流れであるとか、サッカーで言えば試合が動く時間帯であるとか、そういう漠然としたものだ。
この流れが途切れないのがサッカーでありラグビーであり、それを見るのが楽しかった。
昨今ではすぐに時間を止めてしまうようになったが、昔はけが人の処置の時もケンカをしている時でも時間は動いていた。
勝つために時間稼ぎなんてことも昔はよくあったが、それはどのチームでも多かれ少なかれある。
これがバスケットボールやアメリカンフットボールやアイスホッケーのように、審判が笛を吹いた瞬間にプレーが止まり時間も止まるというスポーツと混合してはいけない。
あれはあれで実にアメリカ的だが時間との戦いみたいな感じでその面白さも存在する。
それとは真逆で、滅多なことでは時計を止めないというのが、サッカーやラグビーといういわゆるフットボールの醍醐味だった。
そして軽い反則があった時に反則を受けた方のチャンスが続けば、そのまま流すというのがよくあった。
そもそもゲームにおいて主審の判断が絶対であり、副審は主審が見えにくい角度をサポートする立場だ。
だからこそ主審の力量が試されるとも言えよう。
主審が黒と言えば周りが何を言おうが黒なのである。
もちろん悪質な反則にはゲームを止めてカードを出すが、上手い審判はその辺のさじ加減が絶妙なのだ。
86年にメキシコで開催されたサッカーワールドカップはマラドーナの活躍でアルゼンチンを優勝に導いたが、伝説になっている神の手の話をする。
戦争で負けたイングランド相手にサッカーでは負けないぞというアルゼンチンの因縁の対決。
ゴール前にフワっと上がったボールにマラドーナが走り込みキーパーと1対1になった。
キーパーとクロスになる直前でマラドーナが頭で押し込みゴール。
実際にはマラドーナが左手を使っていたのだが、頭のすぐ横でひじを曲げた状態だったので審判の位置からは見えなかった。
当然イングランドからは抗議があったが、主審は判定を曲げずにゴールはそのまま。
これは動画でも残っているが、明らかにハンドである。
だが当時は主審の判定は絶対だった。
後にこれが『神の手』と呼ばれることになるのだが、神の手をやったのは誰か?
当たり前の答えはマラドーナであるが、その瞬間に現場にいた人は3人。
マラドーナ、イングランドのキーパー、そして審判である。
この3人がいたからこそ神の手が生まれたのだ。
これが今だったらどうだ?
ビデオで色々な角度から撮ったものを検証して、実際にフィールドに立っていない人がそれを見て判断する。
主審はそれを聞いて、ノーゴールと宣言する。
つまり今のシステムでは今後『神の手』は現れない。
この話のタイトル、神はもういないとはそういうことだ。
僕はこの試合を高校生の時にテレビの生中継で見たけど、あの興奮は一生忘れない。
サッカーというスポーツが現場の人間で行われていた古き良き時代だ。
同じ大会で高田静夫という人が日本人では初めてワールドカップの主審を務めたが、堂々たる裁きっぷりだった。
Jリーグができるはるか以前の話であり、日本がワールドカップに出るなんて考えられない時代だった。
日本人でも選手としてでなく、審判として立派な人もいるんだな、と思ったことを覚えている。
世界のトップレベルの試合になると選手だけでなく審判の能力も求められるのである。
時代は流れ技術の進歩とともにスポーツの世界も変わっていく。
大きな試合ともなれば数多くのカメラが色々な角度から撮影をする。
審判のミスと呼べないような物、例えば主審の位置からは見えない角度のプレーは存在する。
そういったものもビデオカメラは写しだし、それが審判のミスとされてしまうこともある。
より公正にという目的でビデオでの検証が導入されたのも時代の流れというものか。
それによりサッカーやラグビーがつまらなくなった、というのが自分の個人的見解だ。
今回のラグビーワールドカップ決勝で一つのプレーを例えにだす。
オールブラックスのラインアウトでボールが落ちたかどうか微妙なプレーがあった。
ボールが落ちたらそこでプレーは止まり相手ボールのスクラムとなるが、落ちていなかったらプレーは続けられる。
試合の流れでも重要な局面だった。
実際にはボールが落ちそうになる前に南アフリカの反則があったのだが、審判はボールは落ちていないということでプレーは継続された。
オールブラックスはそこからパスをつなぎトライをして主審もそれを認めた。
その後でビデオ検証チームが、ボールは落ちていた、さらにはそれ以前に南アフリカに反則があったと主張があった。
確かにビデオで見ると反則もあったしボールも落ちている。
結果どうなったかというと、トライは無効となりいくつものプレーを巻き戻し最初の反則があった場所に戻りやり直しだ。
ちなみにラグビーでは反則をされた側がボールを持っていれば審判が「アドバンテージ」と宣言してプレーは続く。
そこで味方が反則をしたり、相手にボールを取られたりした場合には最初の反則のあった場所に戻り、そこから再スタートをする。
アドバンテージの時間が長くなったりすれば審判は「アドバンテージオーバー」と宣言して普通のゲームに戻る。
だからプレーを巻き戻して元の場所に戻るということはよくあるが、それはあくまで審判が「アドバンテージ」を宣言した場合であり、両チームもそれを考慮してプレーを続ける。
たとえここで相手にボールを取られても味方のペナルティに戻るという前提で、ギャンブル的に大きなプレーをすることもある。
それはそれでお互いに戦略というわけで、そこがラグビーというスポーツ独自の醍醐味とも言えよう。
今回の話はそれと別で、主審が「ノーノックオン」要はボールは落ちていないのでそのままプレーを続けろ、ということでアドバンテージではなく普通の状態で両チームともやって、その後オールブラックスがトライを決めたが、ビデオ検証チームがケチをつけたというわけだ。
応援しているチームのトライを取り消された僻みという感情はもちろんあるが、それより大きな意味がこのプレーにある。
これは試合の主導権が主審ではなく第三者になってしまったということだ。
現場に一番近くにいたのは主審だろ?
じゃあ主審の裁量に任せろよ。
例え主審がそのまま流しても、周りがそれを許さない構造になっている。
主審も「なんだなんだ、俺が一番近くで見てんだぞ、そこはガタガタ言わずに俺に任せろよ」と心の奥で思っているかもしれない思っていないかもしれない。
確実に言えるのはゲームがつまらなくなり、神の手は二度と現れないということだ。
なんとなくこの構造が今の社会の縮図になっているような気がするのだ。
人間が繰り広げる社会での流れ。
それとは別に時間だけが独立して動いている流れ、時間が社会をコントロールする仕組み。
現場でやっている人の判断を尊重せず、遠隔でコントロールする構造。
どれもが今の世の中で起きている事象ではないか。
そしてそれを外野でギャーギャー言う連中、このブログのように。
ここでこの長い文の最初に戻るが、勝負は勝ってナンボ。
何をどう偉そうに言おうが、勝ちは勝ちで負けは負け。
全ては負け犬の遠吠えなのである。
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