ホテルに荷物を置き、アルツ磐梯時代のパトロール仲間マヤと出会い歌舞伎町界隈をウロウロ。
この日は甥っ子のハヤトが新宿でライブをやるというので見に行く。
ハヤトは芸人の卵で、東京で暮らしながら仲間のお笑い芸人達とライブをする。
一組の持ち時間は4〜5分で次から次へとお笑いコンビとかトリオが出てくるシステムだ。
中には何が面白いのかよく分からないというのもある。
ハヤトは『たどころ』というトリオの中で芸名はキティ。
今回はじいちゃんとばあちゃんが詐欺にひっかかるというコントでハヤトの役は孫。
身内のひいき目かもしれないが、発声もよくできていてまずまずの出来だと思った。
ただ、芸の道は厳しいものなのだろうと素人なりに想像はできる。
ハヤトは夕方からもう一度ライブがあるので、僕は寄席で落語なんぞを聴き、その後に合流。
軽く飯を食い、いよいよ今回のメインである新宿二丁目へ。
前々回のブログでも書いたが、いろんな意味で芸の人ユーマがやっているゲイバーパニックハウスに行くのである。
前回ニュージーランドで出会ったユーマが「今度は私が新宿二丁目をガイドします」という言葉に釣られて僕がホイホイとやってきた。
ハヤトも芸人のはしくれ、ユーマのことは元々知っており、それなら是非一緒に行きたいというので同行することになったのである。
二人でなんか怪しげなビルの地下を降りていくと、あったあったありましたよ、パニックハウス。
恐る恐るドアを開けたら中は異空間。
カウンターがあってお酒が並んでいて一応バーの体裁を保っているが、おチンチンのおもちゃとか訳分からない小物がそこら中に転がっている。
そんな中でユーマが僕たちを迎えてくれた。
カウンターの向こうで働いている多分ゲイの人も加わり先ずはビールで乾杯。
この日は日曜日ということもあってか、僕たち以外にお客さんはいないので貸切状態。
聞くと金曜土曜はやはり人が多く、かなり賑やかになるそうだ。
隣の店からはカラオケの音が聞こえるが、週末はここもそうなるのだろう。
僕は正直カラオケが嫌いなので、静かなのがありがたい。
おかげでユーマとゆっくり話ができたし、ついでにプロレタリア万歳の収録もノリでやってしまった。
その晩は他にお客さんも来そうにないので店を閉めて別の店に行こう、とユーマが言い出した。
「聖さんを連れて行きたいお店があるんです❤️」
全くもって異存はない。
その晩はとことん新宿二丁目で遊ぶつもりで近くにホテルも取ってあるし、他の店というのも見てみたい。
店を出てユーマのガイドでブラブラと新宿二丁目を歩く。
ユーマ曰く、この狭い界隈に450軒のゲイバーやお鍋バーやレズビアンバーその他諸々の、言わゆるそっち系のお店がある。
中にはガチのその筋の人だけとか一見さんお断りのお店もあるそうな。
確かに辺りは一種独特の雰囲気があり、同じ新宿でも歌舞伎町や三丁目からちょっと離れるとこうも変わるものなのか。
これだけ狭い地域にそういう店が集まっているというのは世界にも珍しいそうで、これはそのまま日本の性差別の歴史を表しているのではなかろうか。
少数派、マイナリティというものが安心して暮らすために取る手段は同士で集まることであり、これはどの部族や民族や宗教でも同じ事だし、動物の世界でもある。
あるマイナリティが密集すれば、限られたその地域では多数派となり政治的なり武力的なりの力が生まれる。
田舎ではゲイというだけで特別視され差別迫害された人でも、新宿二丁目に来ればただの人になれる、ということは容易に想像できる。
そういう形でできたんだろうな、この街は。
根底にあるのは自分と違うものを認めず排他的になる人間の心だ。
日本の社会の側面を垣間見た。
ユーマが連れて行ってくれたのは二丁目からちょっと離れた所にある FTM Bar 2'CABIN。
昔はゲイという呼び名ではなくオカマと呼ばれ、逆はオカマに対しオナベと呼ばれていた。
漢字で書くとお釜にお鍋ということで、これも掘り下げたら色々な話が出てきそうだ。
昔の言い方でおなべバー、今の言い方でFTMバーは、とあるビルの中にあるこじんまりとした店だった。
内装は落ち着いた木目で、カウンターが数席にボックス席が一つという大きさというか小ささというか。
キャビンとは船室とか小屋という意味があるが確かにそんな雰囲気であり、それが心地よい。
ユーマのゲイバーパニックハウスは、おチンチンがあっちこっちに転がっているような訳のわからない空間だったが、それとは打って変わったお店である。
そして目の前に居るのは、オナベのマサキとシュート、二人とも元は女で性転換をして男になったという人たち。
僕はボックス席の奥でオカマに挟まれて座っているという状況だ。
先ずはユーマがシャンパンを開けてみんなで乾杯。
話を聞くと彼らはタイかどこかで性転換の手術をしてオッパイやその他のものを取ってしまって男になり、今は奥さんもいて幸せに暮らしているそうな。
マサキもシュートも見た目には顔立ちの整った男の子といった印象で、言われなければ気づかないだろうな。
以前も書いたが、僕はオカマだろうがオナベだろうが、土鍋だろうが中華鍋だろうが圧力鍋だろうがすき焼き鍋だろうがフライパンだろうが気にしない。
だから自分もストレートだろうがカーブだろうがシュートだろうがスライダーだろうがフォークだろうがナックルボールだろうが気にしない。
なんか増えたが、大切なのは心の奥に愛と平和の心があるかどうかだ。
そうやってカテゴライズする事がナンセンスな世の中になりつつある。
自分が持っている価値観や先入観というものが実は社会によって定義されたものであり、その事を我々は認識していない、そろそろそういうことに人類は気づくべきだ。
ユーマが開けたシャンパンボトルが空になったところで今度は僕の番だろう、ボトルを注文した。
色がきれいだったし美味しかったので同じのをと思ったが、あいにく品切れということで別のシャンパンを出してくれた。
こういう時に旅人が酒場で不安になるのは、ぼったくられるんじゃないかという心配事だ。
世の中にはそういうお店もあるし、旅の本とか読んでも世界中でそういった事柄はいくらでも出てくる。
新宿にもぼったくりバーや暴力バーはある。
そこはそれ、今日はユーマというガイドがいるではないか。
見知らぬ街でぼったくられる心配なく安心して飲めるのは大きい。
そういえば僕もただいま計画中の企画だが、クライストチャーチのパブツアーを考えている。
市内のパブを何軒かハシゴしながら、ビールの歴史の話をしながら飲むというものだ。
けっこういけると思うので、早くモノにしないとな。
楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、新宿の夜は更けボトルも空いてそろそろお開き、時間は2時を回っている。
いつものごとく何を話したか覚えていないが楽しかった感覚だけが残っている。
僕にしてはこの時間まで起きているのも非日常、大都会にいるのも非日常、ユーマと一緒に飲んでいるのも非日常、オナベに出会うのも非日常、非日常のオンパレードだ。
旅というもの自体が非日常のものであり、人はそれを求めて旅をする。
旅をすることにより自分の住む環境と違う世界を体験比較し、客観的に自分の社会を判断する。
人に会うのも同じことで、自分と違う価値観や人生観を持つ人と会うことで自分自身を客観的に見ることができる。
帰り道の途中までユーマと歩き、ギンギラギン(死語)にネオンが輝く大通りでお別れをした。
考えてみれば不思議なご縁で繋がったものだが、こうして一緒の時を過ごせたということが嬉しい。
ホテルへ向かう帰り道、夜中の3時近くというのに歌舞伎町界隈は人通りも多くお店も閉める気配を見せない。
不夜城という言葉がふと頭に浮かんだ。
この日は甥っ子のハヤトが新宿でライブをやるというので見に行く。
ハヤトは芸人の卵で、東京で暮らしながら仲間のお笑い芸人達とライブをする。
一組の持ち時間は4〜5分で次から次へとお笑いコンビとかトリオが出てくるシステムだ。
中には何が面白いのかよく分からないというのもある。
ハヤトは『たどころ』というトリオの中で芸名はキティ。
今回はじいちゃんとばあちゃんが詐欺にひっかかるというコントでハヤトの役は孫。
身内のひいき目かもしれないが、発声もよくできていてまずまずの出来だと思った。
ただ、芸の道は厳しいものなのだろうと素人なりに想像はできる。
ハヤトは夕方からもう一度ライブがあるので、僕は寄席で落語なんぞを聴き、その後に合流。
軽く飯を食い、いよいよ今回のメインである新宿二丁目へ。
前々回のブログでも書いたが、いろんな意味で芸の人ユーマがやっているゲイバーパニックハウスに行くのである。
前回ニュージーランドで出会ったユーマが「今度は私が新宿二丁目をガイドします」という言葉に釣られて僕がホイホイとやってきた。
ハヤトも芸人のはしくれ、ユーマのことは元々知っており、それなら是非一緒に行きたいというので同行することになったのである。
二人でなんか怪しげなビルの地下を降りていくと、あったあったありましたよ、パニックハウス。
恐る恐るドアを開けたら中は異空間。
カウンターがあってお酒が並んでいて一応バーの体裁を保っているが、おチンチンのおもちゃとか訳分からない小物がそこら中に転がっている。
そんな中でユーマが僕たちを迎えてくれた。
カウンターの向こうで働いている多分ゲイの人も加わり先ずはビールで乾杯。
この日は日曜日ということもあってか、僕たち以外にお客さんはいないので貸切状態。
聞くと金曜土曜はやはり人が多く、かなり賑やかになるそうだ。
隣の店からはカラオケの音が聞こえるが、週末はここもそうなるのだろう。
僕は正直カラオケが嫌いなので、静かなのがありがたい。
おかげでユーマとゆっくり話ができたし、ついでにプロレタリア万歳の収録もノリでやってしまった。
その晩は他にお客さんも来そうにないので店を閉めて別の店に行こう、とユーマが言い出した。
「聖さんを連れて行きたいお店があるんです❤️」
全くもって異存はない。
その晩はとことん新宿二丁目で遊ぶつもりで近くにホテルも取ってあるし、他の店というのも見てみたい。
店を出てユーマのガイドでブラブラと新宿二丁目を歩く。
ユーマ曰く、この狭い界隈に450軒のゲイバーやお鍋バーやレズビアンバーその他諸々の、言わゆるそっち系のお店がある。
中にはガチのその筋の人だけとか一見さんお断りのお店もあるそうな。
確かに辺りは一種独特の雰囲気があり、同じ新宿でも歌舞伎町や三丁目からちょっと離れるとこうも変わるものなのか。
これだけ狭い地域にそういう店が集まっているというのは世界にも珍しいそうで、これはそのまま日本の性差別の歴史を表しているのではなかろうか。
少数派、マイナリティというものが安心して暮らすために取る手段は同士で集まることであり、これはどの部族や民族や宗教でも同じ事だし、動物の世界でもある。
あるマイナリティが密集すれば、限られたその地域では多数派となり政治的なり武力的なりの力が生まれる。
田舎ではゲイというだけで特別視され差別迫害された人でも、新宿二丁目に来ればただの人になれる、ということは容易に想像できる。
そういう形でできたんだろうな、この街は。
根底にあるのは自分と違うものを認めず排他的になる人間の心だ。
日本の社会の側面を垣間見た。
ユーマが連れて行ってくれたのは二丁目からちょっと離れた所にある FTM Bar 2'CABIN。
昔はゲイという呼び名ではなくオカマと呼ばれ、逆はオカマに対しオナベと呼ばれていた。
漢字で書くとお釜にお鍋ということで、これも掘り下げたら色々な話が出てきそうだ。
昔の言い方でおなべバー、今の言い方でFTMバーは、とあるビルの中にあるこじんまりとした店だった。
内装は落ち着いた木目で、カウンターが数席にボックス席が一つという大きさというか小ささというか。
キャビンとは船室とか小屋という意味があるが確かにそんな雰囲気であり、それが心地よい。
ユーマのゲイバーパニックハウスは、おチンチンがあっちこっちに転がっているような訳のわからない空間だったが、それとは打って変わったお店である。
そして目の前に居るのは、オナベのマサキとシュート、二人とも元は女で性転換をして男になったという人たち。
僕はボックス席の奥でオカマに挟まれて座っているという状況だ。
先ずはユーマがシャンパンを開けてみんなで乾杯。
話を聞くと彼らはタイかどこかで性転換の手術をしてオッパイやその他のものを取ってしまって男になり、今は奥さんもいて幸せに暮らしているそうな。
マサキもシュートも見た目には顔立ちの整った男の子といった印象で、言われなければ気づかないだろうな。
以前も書いたが、僕はオカマだろうがオナベだろうが、土鍋だろうが中華鍋だろうが圧力鍋だろうがすき焼き鍋だろうがフライパンだろうが気にしない。
だから自分もストレートだろうがカーブだろうがシュートだろうがスライダーだろうがフォークだろうがナックルボールだろうが気にしない。
なんか増えたが、大切なのは心の奥に愛と平和の心があるかどうかだ。
そうやってカテゴライズする事がナンセンスな世の中になりつつある。
自分が持っている価値観や先入観というものが実は社会によって定義されたものであり、その事を我々は認識していない、そろそろそういうことに人類は気づくべきだ。
ユーマが開けたシャンパンボトルが空になったところで今度は僕の番だろう、ボトルを注文した。
色がきれいだったし美味しかったので同じのをと思ったが、あいにく品切れということで別のシャンパンを出してくれた。
こういう時に旅人が酒場で不安になるのは、ぼったくられるんじゃないかという心配事だ。
世の中にはそういうお店もあるし、旅の本とか読んでも世界中でそういった事柄はいくらでも出てくる。
新宿にもぼったくりバーや暴力バーはある。
そこはそれ、今日はユーマというガイドがいるではないか。
見知らぬ街でぼったくられる心配なく安心して飲めるのは大きい。
そういえば僕もただいま計画中の企画だが、クライストチャーチのパブツアーを考えている。
市内のパブを何軒かハシゴしながら、ビールの歴史の話をしながら飲むというものだ。
けっこういけると思うので、早くモノにしないとな。
楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、新宿の夜は更けボトルも空いてそろそろお開き、時間は2時を回っている。
いつものごとく何を話したか覚えていないが楽しかった感覚だけが残っている。
僕にしてはこの時間まで起きているのも非日常、大都会にいるのも非日常、ユーマと一緒に飲んでいるのも非日常、オナベに出会うのも非日常、非日常のオンパレードだ。
旅というもの自体が非日常のものであり、人はそれを求めて旅をする。
旅をすることにより自分の住む環境と違う世界を体験比較し、客観的に自分の社会を判断する。
人に会うのも同じことで、自分と違う価値観や人生観を持つ人と会うことで自分自身を客観的に見ることができる。
帰り道の途中までユーマと歩き、ギンギラギン(死語)にネオンが輝く大通りでお別れをした。
考えてみれば不思議なご縁で繋がったものだが、こうして一緒の時を過ごせたということが嬉しい。
ホテルへ向かう帰り道、夜中の3時近くというのに歌舞伎町界隈は人通りも多くお店も閉める気配を見せない。
不夜城という言葉がふと頭に浮かんだ。
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