弟子二人
2024-10-18 | 人
トモヤという弟子ができた事は去年のブログで書いた。
スキーがしたくて無鉄砲に日本を飛び出したのはいいが、雪がなくどうしようか途方にくれていた所に娘のつてで我が家に来た。
来たのはいいが、来てそうそうに僕の車と家のフェンスを壊すという大失態をやらかし、色々あって弟子となった。
トモヤから双子の弟なのか兄なのかケースケの話は聞いていて、日本に行った時に白馬で会い、みんな一緒にカズヤの家で世話になった話も最近のブログで書いた。
そんなトモヤとケースケがニュージーランドにやってきたのが8月の初旬。
ボロボロのエスティマを買い、その車に二人で寝泊まりしてスキーをしてフリーライドの大会にも出た。
今回はそんな二人の話である。
一卵性双生児という人達がここまで似ているというのを目の当たりにして、人間って面白いなあと思った。
体や顔つきや声や話し方などが一緒で、よく間違われると言うのも納得だ。
僕も電話で話す時などあらかじめどちらと話すか分かっていて会話をするからまだいいが、もしもそれがなかったらどちらか区別できない。
カズヤなどはもっとひどく、直接会って話をしていてもどちらと喋っているか分からないと言う。
カズヤの場合はそもそも認識する気もなく「どっちでも大差ないっしょ」といういい加減な理由からである。
二人と一緒に話をしていて二人とも納得いく話になった時に「ああ〜」という相槌のタイミングが全く一緒なのも面白い。
そして二人ともに同じタイミングで『ああ、またやっちまった』という顔をするのも面白いのである。
それでもじっくり話をしていると、やはり性格とか人格は違うのだなというのが見えてくるものだ。
ケースケは明確な目標を持ってそれに向かって突き進んでいくタイプ、トモヤはとりあえず行動を起こすタイプ。
自分もどちらかと問われればトモヤ型であり、旅をする時にはできるだけ決めないでできることなら棒を投げて向いた方向に進みたい、風の向くまま気の向くままにやりたい人だ。
どちらかが良い悪いという話ではなく、そういうタイプが存在するという話だ。
人間とは自己正当化する生き物なので、自分と違うやり方を否定する傾向にある。
まずは自分と違うものを認めるところからコミュニケーションというものが始まるのだろう。
ケースケもトモヤも出生時には同じで同じ幼少期を過ごしていただろうが、高校ぐらいからスキーの道に入ったケースケと、一時は大学に入ったものの自分の進むべき道はここにはないと中退してスキーの道に入ったトモヤ。
親元を離れて数年で違う道を歩み、それぞれの出会いや経験がありそれぞれの人生観や倫理観を持っている。
こうやって書くと二人とも立派な若人のようであるが、ダメダメなところはダメダメだ。
トモヤの大失態は去年さんざん見たが、今年は大した失敗はしでかさなかった。
ブログのネタになるようなことがなく、それはそれでつまらない。
ケースケは僕に対しては頭が上がらなくなるようなことはしなかったが、キャンプ中にスキーブーツのインナーブーツをなくした。
商売道具のスキーブーツをなくす、それもインナーだけってどういうことだ?と思ったが本人が言うには自分でもどうやってなくしたか分からないと。
それで困るのは自分だから仕方ないが、どうやってなくなったのか自分でも分からないから困るとボヤいていた。
♩よーそこの若えのこんな自分のままじゃいけねーぞと頭かかえているそんな自分のままでいけよ、と竹原ピストルが歌っているが
どうしようもないものはどうしようもない。
カズヤが二人の違いをこう表していた。
「一見ちゃんとしてそうに見えて本当はダメダメなのがケースケ。一見ダメそうに見えて実はやっぱりダメダメなのがトモヤ。結局二人ともダメダメじゃーん」
言い得て妙だし身も蓋もない話だが的を得ている。
そんな二人も滞在中に我が家へ立ち寄り、何回か飯も食わせ一緒に酒も飲んだ。
若い者の食いっぷりは見ていて気持ちがいい。
大会前に「お前ら頑張れよ、兄弟で一位二位取って来い」と激を飛ばせば二人揃って同じタイミングで「自分が勝ちます」と意気込む。
そんな二人の姿に僕は希望を見出す。
何の希望かと問われれば人類の未来への希望である。
随分と大きな話になったぞ。
そもそも競うとはどういうことか?
これは相手がいて、その相手よりいい結果を出したいという願望から来る人間本来の性質だ。
極論を言えば、無人島で一人で暮らしていれば競い合いはない。
だが人間は一人では生きていけず、社会というものの中で生きている。
今こうやって文明社会の中で生きていけるのも競うということがあったからだ。
石器時代に狩猟採集をしていた時だって誰がたくさん獲物を捕るとかはあっただろうし、農耕を始めても誰がたくさん収穫をするとかそういう競い合いはあり、今でもある。
文明が発展してから競う対象は全ての事柄となり、いつの頃からか競い合いは競争となっていった。
そもそも向上心があって競うわけであり、争うということは別物のはずだ。
だが勝負になればどちらかが勝ちどちらかが負ける。
勝ち組や負け組という言葉も最近流行ったな。
結果至上主義となり、勝つためには手段を選ばないということになる。
互いに高め合うための競い合いは、相手の足を引っ張り引きずり下ろし合う醜い争いになった。
今の人類に必要なのは競うための争いではなく、互いに自分を高める真の競う姿だ。
自分を高め相手に勝つためには自分を知り相手を知らなくてはならない。
己を見つめ切磋琢磨して正々堂々と勝負に挑む姿こそが日本の武道の真髄、ひいては武士道の精神につながる。
そういう意味で二人の若者の姿に明るい未来の光を見るのだ。
9月の初めマウントオリンパスの大会の前に二人が我が家へ来て一緒に飲んだ。
「二人とも自分が出来ることで精一杯やってこい。結果はついてくるものだぞ」
そんな言葉で二人を送り出した。
結果はケースケが16位でトモヤが17位。
ここでも大差がつかず僅かな差で兄弟仲良く順番に並ぶのが面白いと言えば面白い。
勝負の話に戻るが、負けがあるから勝ちがある。
勝てば嬉しいし負ければ悔しい。
その悔しさをバネにして次に向けて人はがんばる。
負けた人がかわいそうだからという理由で一位をつけない運動会なんてものをやった学校の話を聞いたがバカバカしいのにもほどがある。
そんなのは本質が見えていない馬鹿な大人のタワゴトである。
子供の遊びの中にも大人の社会の中にも勝ち負けは常に存在する。
これはスポーツに限る話ではなく、学校の成績、ゲームの上手い下手、会社の運営や店の売り上げ、芸術の世界、いたるところに勝ちがありそれ以上の数の負けがある。
現代社会の結果至上主義は勝ちが全てであり負けることは意味がないととらえる。
だが長い歴史を勉強すれば、どんなに栄えた大帝国も全て滅び、どんなに強い大将軍でも全て死ぬし、どんなに強いスポーツ選手も老いれば若い者に倒される。
諸行無常であり勝者必衰のことわりを表す、という平家物語の一文に書いてある。
だからといって何もしないというのはこれまた違う。
もがいてあがいて打ち倒されるが、また這い上がって立ち上がる、その姿の中にこそ真の美しさがある。
結果はあとからついてくるものであり、その過程こそが大切だ。
最近では過程を重視したプロセスエコノミーなどという動きもある。
マウントオリンパスでの大会が終わり帰国までの数日間、兄弟は我が家に滞在した。
ちょうど自分も仕事がなく、二人と一緒にカヤックで花見をしたり市内観光に連れて行ったり楽しい時を過ごした。
夜は酒を飲みながらダラダラと話をするが、構造的に物を考える話をしている時にトモヤが音をあげた。
「自分はアホだからそういう難しいのはわからないッス」
「トモヤ、お前はアホではないぞよ。問題なのはそうやって考えることを放棄してしまうことだ」
ケースケが横から言う。「そうだよ、お前はいつもそうだ」
「うっせーな!おめーに言われたくねーよ。むかつくな」
と兄弟喧嘩が始まるが、それさえも愛おしい。
確かに同じ事柄でもこいつには言われたくないということが誰にも存在する。
それは自分に近い存在であればあるほど顕著に現れる。
僕の言葉を聞いて二人は違う捉え方をしてもそれは当然であり正しい答えなどない。
本当の答えなど風の中にしかないのだ。
今回の滞在中にケースケが自分のスキー板を折ってしまった。
スキーを折るってどういうこと?と思うだろうが超急斜面を滑り崖を飛び降りるようなスキーをしていれば折れることもある。
一般の人には理解できないかもしれないが、彼らがやっているスキーとはそういうものだ。
壊れた板を日本に持って帰っても使えるわけでなし、NZに捨てていくことになる。
「あーあ、この板好きだったんですよねー」とケースケがぼやくので「それならこの庭の好きな所に貼っていけ。一生かざってやるぞ。そうだな、ついでに何か一言書いていけ。お前たち二人がビッグになってプレミアがついたらネットオークションに出してやる」
「一生かざってくれるんじゃないんですか?」
「それぐらいになるようにガンバレってことだよ、バカヤロー」
そんなことを言いながら兄弟があーだこーだ言いながら物置の上と温室の柱に貼り付けるのを眺める。
そんな彼らの姿に、僕は明るい将来しか見えない。
これから奴らの進む道には勝利の栄光も敗北の挫折もあるだろう。
今はたとえダメダメでポンコツで世間知らずで間抜けでろくでなしでおっちょこちょいでトンチンカンで昼行燈でアンポンタンで無駄飯食らいだとしても、心の奥の向いている方向さえ間違っていなければ何の問題もない。
奴らの心の奥にチロチロと小さく燃える光は、これから大きな炎となりこの腐りきった世の中を明るく照らすであろう。
こういう若者達がいる限り、日本はこの世界は大丈夫なんだろうなと心底思う。
それなのにトモヤなんぞは「でも、そんな事言っても」とボヤく。
「お前は何を心配してるんだ?師匠のオレが大丈夫って言ってんだぞ。師匠の言う事は絶対じゃないのか?」
「絶対です」
「じゃあ、いいだろそれで」
「でもお」
「だーかーらー、オマエは俺がこれほどまでにオマエ達を認めているのに、なーにが気に食わん?」
「でも、そんな事言っても」
「オレがオマエを信じているのに自分が自分を信じないでどうする」
「それはそうなんでけどお」
僕もトモヤも酔っ払っているので、何が大丈夫なのか何を否定しているのか自分達も訳が分からなくなっている。
横でケースケが偉そうにウンウンと頷くものだから、またトモヤがカチンと来る。
「うっせーな、おめーに言われたくねーんだよ。『自分は分かってます』みたいな顔しやがって、それがむかつくんだよ」
こうして堂々めぐりの話をしながら夜は更けていく。
師匠の自分が若い弟子達にできることは腹一杯食わせることと背中を押してあげること、あとは竹原ピストルの「よーそこの若いの」を歌ってやるぐらいのものだ。
スキーを教えるほど自分はスキーは上手くないので、スキーの事は別の人に聞けと言ってある。
思想や思考法は伝えはするが強制する気もさらさらない。
今はたとえ分からなくても、あの時に言っていたのはこういうことかと理解する時がやってくる。
あとはそうだなあ、自分が出来ることをやれとは常々言っている。
そんなもんだろう。
奴らが去り、庭に直筆サイン入りのスキー板が残る。
Free Ride World Tour 出場 手塚慧介
おめーに言われたくねーよ‼︎ 手塚智也
宝物が一つ増えた。
スキーがしたくて無鉄砲に日本を飛び出したのはいいが、雪がなくどうしようか途方にくれていた所に娘のつてで我が家に来た。
来たのはいいが、来てそうそうに僕の車と家のフェンスを壊すという大失態をやらかし、色々あって弟子となった。
トモヤから双子の弟なのか兄なのかケースケの話は聞いていて、日本に行った時に白馬で会い、みんな一緒にカズヤの家で世話になった話も最近のブログで書いた。
そんなトモヤとケースケがニュージーランドにやってきたのが8月の初旬。
ボロボロのエスティマを買い、その車に二人で寝泊まりしてスキーをしてフリーライドの大会にも出た。
今回はそんな二人の話である。
一卵性双生児という人達がここまで似ているというのを目の当たりにして、人間って面白いなあと思った。
体や顔つきや声や話し方などが一緒で、よく間違われると言うのも納得だ。
僕も電話で話す時などあらかじめどちらと話すか分かっていて会話をするからまだいいが、もしもそれがなかったらどちらか区別できない。
カズヤなどはもっとひどく、直接会って話をしていてもどちらと喋っているか分からないと言う。
カズヤの場合はそもそも認識する気もなく「どっちでも大差ないっしょ」といういい加減な理由からである。
二人と一緒に話をしていて二人とも納得いく話になった時に「ああ〜」という相槌のタイミングが全く一緒なのも面白い。
そして二人ともに同じタイミングで『ああ、またやっちまった』という顔をするのも面白いのである。
それでもじっくり話をしていると、やはり性格とか人格は違うのだなというのが見えてくるものだ。
ケースケは明確な目標を持ってそれに向かって突き進んでいくタイプ、トモヤはとりあえず行動を起こすタイプ。
自分もどちらかと問われればトモヤ型であり、旅をする時にはできるだけ決めないでできることなら棒を投げて向いた方向に進みたい、風の向くまま気の向くままにやりたい人だ。
どちらかが良い悪いという話ではなく、そういうタイプが存在するという話だ。
人間とは自己正当化する生き物なので、自分と違うやり方を否定する傾向にある。
まずは自分と違うものを認めるところからコミュニケーションというものが始まるのだろう。
ケースケもトモヤも出生時には同じで同じ幼少期を過ごしていただろうが、高校ぐらいからスキーの道に入ったケースケと、一時は大学に入ったものの自分の進むべき道はここにはないと中退してスキーの道に入ったトモヤ。
親元を離れて数年で違う道を歩み、それぞれの出会いや経験がありそれぞれの人生観や倫理観を持っている。
こうやって書くと二人とも立派な若人のようであるが、ダメダメなところはダメダメだ。
トモヤの大失態は去年さんざん見たが、今年は大した失敗はしでかさなかった。
ブログのネタになるようなことがなく、それはそれでつまらない。
ケースケは僕に対しては頭が上がらなくなるようなことはしなかったが、キャンプ中にスキーブーツのインナーブーツをなくした。
商売道具のスキーブーツをなくす、それもインナーだけってどういうことだ?と思ったが本人が言うには自分でもどうやってなくしたか分からないと。
それで困るのは自分だから仕方ないが、どうやってなくなったのか自分でも分からないから困るとボヤいていた。
♩よーそこの若えのこんな自分のままじゃいけねーぞと頭かかえているそんな自分のままでいけよ、と竹原ピストルが歌っているが
どうしようもないものはどうしようもない。
カズヤが二人の違いをこう表していた。
「一見ちゃんとしてそうに見えて本当はダメダメなのがケースケ。一見ダメそうに見えて実はやっぱりダメダメなのがトモヤ。結局二人ともダメダメじゃーん」
言い得て妙だし身も蓋もない話だが的を得ている。
そんな二人も滞在中に我が家へ立ち寄り、何回か飯も食わせ一緒に酒も飲んだ。
若い者の食いっぷりは見ていて気持ちがいい。
大会前に「お前ら頑張れよ、兄弟で一位二位取って来い」と激を飛ばせば二人揃って同じタイミングで「自分が勝ちます」と意気込む。
そんな二人の姿に僕は希望を見出す。
何の希望かと問われれば人類の未来への希望である。
随分と大きな話になったぞ。
そもそも競うとはどういうことか?
これは相手がいて、その相手よりいい結果を出したいという願望から来る人間本来の性質だ。
極論を言えば、無人島で一人で暮らしていれば競い合いはない。
だが人間は一人では生きていけず、社会というものの中で生きている。
今こうやって文明社会の中で生きていけるのも競うということがあったからだ。
石器時代に狩猟採集をしていた時だって誰がたくさん獲物を捕るとかはあっただろうし、農耕を始めても誰がたくさん収穫をするとかそういう競い合いはあり、今でもある。
文明が発展してから競う対象は全ての事柄となり、いつの頃からか競い合いは競争となっていった。
そもそも向上心があって競うわけであり、争うということは別物のはずだ。
だが勝負になればどちらかが勝ちどちらかが負ける。
勝ち組や負け組という言葉も最近流行ったな。
結果至上主義となり、勝つためには手段を選ばないということになる。
互いに高め合うための競い合いは、相手の足を引っ張り引きずり下ろし合う醜い争いになった。
今の人類に必要なのは競うための争いではなく、互いに自分を高める真の競う姿だ。
自分を高め相手に勝つためには自分を知り相手を知らなくてはならない。
己を見つめ切磋琢磨して正々堂々と勝負に挑む姿こそが日本の武道の真髄、ひいては武士道の精神につながる。
そういう意味で二人の若者の姿に明るい未来の光を見るのだ。
9月の初めマウントオリンパスの大会の前に二人が我が家へ来て一緒に飲んだ。
「二人とも自分が出来ることで精一杯やってこい。結果はついてくるものだぞ」
そんな言葉で二人を送り出した。
結果はケースケが16位でトモヤが17位。
ここでも大差がつかず僅かな差で兄弟仲良く順番に並ぶのが面白いと言えば面白い。
勝負の話に戻るが、負けがあるから勝ちがある。
勝てば嬉しいし負ければ悔しい。
その悔しさをバネにして次に向けて人はがんばる。
負けた人がかわいそうだからという理由で一位をつけない運動会なんてものをやった学校の話を聞いたがバカバカしいのにもほどがある。
そんなのは本質が見えていない馬鹿な大人のタワゴトである。
子供の遊びの中にも大人の社会の中にも勝ち負けは常に存在する。
これはスポーツに限る話ではなく、学校の成績、ゲームの上手い下手、会社の運営や店の売り上げ、芸術の世界、いたるところに勝ちがありそれ以上の数の負けがある。
現代社会の結果至上主義は勝ちが全てであり負けることは意味がないととらえる。
だが長い歴史を勉強すれば、どんなに栄えた大帝国も全て滅び、どんなに強い大将軍でも全て死ぬし、どんなに強いスポーツ選手も老いれば若い者に倒される。
諸行無常であり勝者必衰のことわりを表す、という平家物語の一文に書いてある。
だからといって何もしないというのはこれまた違う。
もがいてあがいて打ち倒されるが、また這い上がって立ち上がる、その姿の中にこそ真の美しさがある。
結果はあとからついてくるものであり、その過程こそが大切だ。
最近では過程を重視したプロセスエコノミーなどという動きもある。
マウントオリンパスでの大会が終わり帰国までの数日間、兄弟は我が家に滞在した。
ちょうど自分も仕事がなく、二人と一緒にカヤックで花見をしたり市内観光に連れて行ったり楽しい時を過ごした。
夜は酒を飲みながらダラダラと話をするが、構造的に物を考える話をしている時にトモヤが音をあげた。
「自分はアホだからそういう難しいのはわからないッス」
「トモヤ、お前はアホではないぞよ。問題なのはそうやって考えることを放棄してしまうことだ」
ケースケが横から言う。「そうだよ、お前はいつもそうだ」
「うっせーな!おめーに言われたくねーよ。むかつくな」
と兄弟喧嘩が始まるが、それさえも愛おしい。
確かに同じ事柄でもこいつには言われたくないということが誰にも存在する。
それは自分に近い存在であればあるほど顕著に現れる。
僕の言葉を聞いて二人は違う捉え方をしてもそれは当然であり正しい答えなどない。
本当の答えなど風の中にしかないのだ。
今回の滞在中にケースケが自分のスキー板を折ってしまった。
スキーを折るってどういうこと?と思うだろうが超急斜面を滑り崖を飛び降りるようなスキーをしていれば折れることもある。
一般の人には理解できないかもしれないが、彼らがやっているスキーとはそういうものだ。
壊れた板を日本に持って帰っても使えるわけでなし、NZに捨てていくことになる。
「あーあ、この板好きだったんですよねー」とケースケがぼやくので「それならこの庭の好きな所に貼っていけ。一生かざってやるぞ。そうだな、ついでに何か一言書いていけ。お前たち二人がビッグになってプレミアがついたらネットオークションに出してやる」
「一生かざってくれるんじゃないんですか?」
「それぐらいになるようにガンバレってことだよ、バカヤロー」
そんなことを言いながら兄弟があーだこーだ言いながら物置の上と温室の柱に貼り付けるのを眺める。
そんな彼らの姿に、僕は明るい将来しか見えない。
これから奴らの進む道には勝利の栄光も敗北の挫折もあるだろう。
今はたとえダメダメでポンコツで世間知らずで間抜けでろくでなしでおっちょこちょいでトンチンカンで昼行燈でアンポンタンで無駄飯食らいだとしても、心の奥の向いている方向さえ間違っていなければ何の問題もない。
奴らの心の奥にチロチロと小さく燃える光は、これから大きな炎となりこの腐りきった世の中を明るく照らすであろう。
こういう若者達がいる限り、日本はこの世界は大丈夫なんだろうなと心底思う。
それなのにトモヤなんぞは「でも、そんな事言っても」とボヤく。
「お前は何を心配してるんだ?師匠のオレが大丈夫って言ってんだぞ。師匠の言う事は絶対じゃないのか?」
「絶対です」
「じゃあ、いいだろそれで」
「でもお」
「だーかーらー、オマエは俺がこれほどまでにオマエ達を認めているのに、なーにが気に食わん?」
「でも、そんな事言っても」
「オレがオマエを信じているのに自分が自分を信じないでどうする」
「それはそうなんでけどお」
僕もトモヤも酔っ払っているので、何が大丈夫なのか何を否定しているのか自分達も訳が分からなくなっている。
横でケースケが偉そうにウンウンと頷くものだから、またトモヤがカチンと来る。
「うっせーな、おめーに言われたくねーんだよ。『自分は分かってます』みたいな顔しやがって、それがむかつくんだよ」
こうして堂々めぐりの話をしながら夜は更けていく。
師匠の自分が若い弟子達にできることは腹一杯食わせることと背中を押してあげること、あとは竹原ピストルの「よーそこの若いの」を歌ってやるぐらいのものだ。
スキーを教えるほど自分はスキーは上手くないので、スキーの事は別の人に聞けと言ってある。
思想や思考法は伝えはするが強制する気もさらさらない。
今はたとえ分からなくても、あの時に言っていたのはこういうことかと理解する時がやってくる。
あとはそうだなあ、自分が出来ることをやれとは常々言っている。
そんなもんだろう。
奴らが去り、庭に直筆サイン入りのスキー板が残る。
Free Ride World Tour 出場 手塚慧介
おめーに言われたくねーよ‼︎ 手塚智也
宝物が一つ増えた。
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