毎度毎度のことだが、実際に会ってみるまでどんな人がお客さんなのか分からない。
知らされるのはお客さんの名前と人数。
時に親子であるとか家族旅行とかそういう情報も来るが、ほとんどの場合は分からない。
ニュージーランドは初めてなのか前回もきたことがあるのか、どこの出身だとか、仕事は何をしているのかとか、そういう事をお客さんに聞きながらツアーを進めるわけである。
この日の仕事は男のお客さん一人でテカポまでの日帰り往復。
前日ぐらいに急に決まった仕事であり、僕は普段通りに指定されたホテルへ向かった。
お客さんは30代後半ぐらいの男の人で、アウトドアとは無縁そうな都会に住んでいるような人だった。
車を走らせてすぐに自己紹介をして話を聞くと、当初の予定は友達4人でキャンパーバンでニュージーランドを回る予定だった。
クライストチャーチに着いて最初の晩に車で寝ようとしたのだがあまりの狭さに全く寝られず、友達とキャンプで巡遊というプランをあきらめ一人で行動する事にした。
というような話をディテールまで細かく、こちらが聞いていない事までベラベラと語ってくれた。
住まいは新宿(東京ではなく新宿と言うのだ)とか飲み屋を何件かやっているという伏線バリバリなのだが、僕はそのあたりの勘がとても鈍く、都内で飲食店をいくつも経営しているちょっと風変わりなやり手の人と捉えていた。
ツアーが始まり1時間ぐらいとりとめもない話をしていたのだが、向こうがカミングアウトした。
「実は私ゲイでして新宿2丁目でゲイバーをやっています」
そこまで言われてやっと納得した。
名前は男だが男っぽくない仕草とか話し方とか、新宿に住んでいるとか、車内でも靴を脱いでスリッパを履いている様子だとか、全部当てはまるじゃん。
我ながら自分の鈍さを思い知った。
うちの女房殿はその辺の嗅覚というか勘が鋭く、街を歩いていてもあの人はゲイだとすぐに気づくようだ。
だからと言ってそれで態度を変えるとかそういうのではなく、ただ単に気づいてしまうのだと言う。
それからカツラを見破る能力、整形をしているかどうか見分ける能力に長けている。
そういう実生活に全く役に立たない能力もあるのだなあと感心をする次第だ。
ちなみに僕は相手がゲイだろうがオカマだろうがお鍋だろうが中華鍋だろうが圧力鍋だろうが気にしない。
接する相手の性別、肌の色、年齢、社会的地位、財産や権力の有無によって態度を変えない。
そういうのよりも、金に目が眩んでいる奴、暴力で相手を支配している奴、マウントを取ってくる奴、人を利用しようとする奴などは軽蔑する。
心の中心に愛と平和があれば誰でも友達になれるし、そうでない人間を見抜く能力はあると思う。
「それから堀プロというところでお笑い芸人もやっています」
「ええ?誰かと組んで漫才みたいなの?」
「いえ、芸はピンでやっていて芸名はカタカナでユーマです」
ここまでさらけ出してくれたら、こちらも本音で話ができる。
それまでは「⚪️⚪️さん」と本名で呼んでいたが、そこからは芸名のユーマさんと呼び、車内での話も弾む。
ちなみに実際に話す時には失礼のないようさん付けだが、この話ではユーマと記す。
ユーマはニュージーランドに来る前にシドニーでゲイの祭典マーディグラに行きゲイパレードを歩いたと嬉しそうに語った。
この国でのゲイの立ち位置や社会がゲイをどう見ているかという話をしたらユーマは喜んで聞いてくれた。
ニュージーランドでは男同士や女同士の結婚が認められていて、その法案が決まった時の国会議員のスピーチが素晴らしかった。
意訳をすると「誰かに迷惑をかけているわけじゃなかろうし、本人たちがそれで幸せなら結婚したっていーじゃん」というようなものだった。
ゲイの国会議員もいるし、子供の学校の制服も男女どちらでも選べる。
自分はゲイではないが、ゲイの人には住みやすい社会なんだろうなと思う。
そもそも歴史を振り返ってみても同性愛というのは当たり前に存在していて、同性愛者が変な目で見られるようになったのはつい最近の話である。
このあたりはコテンラジオの性の歴史を最初から最後までもう一度聞きなおしてみた。
世界史ではキリスト教の宗教改革のあたり、日本では明治維新以降の話だ。
平安貴族も鎌倉武士も戦国武将も江戸時代の大名も一般庶民も男色というのは当たり前にあった。
だが明治維新で西洋の文化を取り入れるという話のときに同性愛を迫害する流れが付いてきたというわけだ。
世界史でも同性愛を罪とする話はキリスト教の教えであるが、当のキリスト本人は同性愛について何も言っていない。
その弟子が「売春も同性愛も快楽の為の性行為も全て罪だ」と言い始めて、それ以来そうなってしまった。
一言で書くとそういうことだが、その背景には科学、宗教、社会、文化、哲学、人間の欲望、政治、病気、医学、全ての事柄が複雑に絡み合っている。
その上で今の僕らが住む社会は成り立っている。
定番のフェアリーのパイ屋でパイを食べ、テカポへ。
目の前に湖が広がる景色にユーマは大興奮でキャーキャーとはしゃいでいる。
それはそうだろう。雑多な街新宿に住む人にとって、テカポのような場所自体が最も普段の生活からかけ離れた存在だ。
非日常を味わうために人は旅をする。
僕にとっての日常はお客さんにとっての非日常であり、それを暖かく見守るのが務めだ。
たとえ自分が何百回訪れた場所であろうと、お客さんに取ってはかけがえのない1回だ。
その瞬間を共有する感覚は一期一会に通ずるものがある。
自分はここのローカルだから何でも知っている、という態度を取る人はその時点でガイド失格だ。
あるベテランスキーインストラクターの言葉を借りる。
「スキーインストラクターという仕事は、その人が人生で初めて雪の上を滑るという体験に立ち会う事ができる素晴らしい仕事である」
その思考法が大切なのはどんな仕事にもあてはまる。
お昼時になり湖畔レストランで名物サーモン丼を食べようということになった。
サーモン丼が運ばれてきて、いただきまーすというタイミングでユーマがスマホをテーブルの上に置き、食べながらラジオの収録をしようということになった。
えええ?いきなりですか?まあ自分のポッドキャストもいつもバーで飲みながらだからいいけど。
「ユーマの新宿二丁目ゲイバーラジオ、それそれー❤️」
えええ?そんなノリで始まるの?
他のお客さんもいるし店員さんもいるからあまり大きな声ではできないけど、サーモン丼を食べながらの収録である。
途中で店員さんがお茶のお代わりを持ってきてくれるところが録音されるのも、自分のポッドキャストと同じだ。
面白いので是非聞いてほしい。
なぜユーマが一人でニュージーランドを旅する事になったのかも、この前回の話でしゃべっている。
人間同士のコミュニケーションで大切なのは心理的安全性である。
簡単に言うと思った事を包み隠さずに話し合える間柄、ということだ。
僕は割とホンネで語るほうだが、お客さん相手の商売だから常にそうとも限らない。
だがこの日は全て本音で話が出来て、ユーマも色々と人生を語ってくれた。
聞くと2年半付き合っていた彼氏と別れてしまって、まだその人の事が忘れられなくて、でも私は身を引いた方がいいかもしれないし、でも今回の旅行で新しく出会った人もいてひょっとするといい関係になるかもしれないし・・・・・
そんなような話を車の中で語るのだ。
ゲイの恋愛相談なんて、そうそう出来るものでもないぞ。
そちらの世界の事は何も知らないので自分の答えがどれだけ当てはまるのか分からないが、向こうはただ話したいだけなのかもしれん。
悩んでいる人には申し訳ないが、面白おかしく話を聞いて、ブログネタにするのも承諾してもらった。
僕も新宿二丁目というものがどういう場所か知らないので色々と聞かせてもらうのも面白い。
「そういうゲイバーという店は普通の人も行けるものなんですか?」
「中には専門のお店もあってノンケの人はお断りという所もあるけど、ノンケもいいわよというお店もあってそれはいろいろよ」
「へえ、そういうものなんだ。僕は日本にいた時は田舎というか山奥にいたから都会にほとんど出なかったんです。今度行ってみようかな。」
「是非是非来てぇ、新宿二丁目をガイドしちゃうわよ」
「それは嬉しいな。日本にいつ帰るか分からないけど、その時はお願いします」
そんな話をしながらクライストチャーチに着いて、とても興味深く楽しい仕事が終わった。
家に帰りさっそくユーマでググってみたら真っ先に出てきたのは、未確認生物や未確認動物といったネッシーみたいなものの総称UMAのユーマ。
いやいやこれじゃないぞよ。
お笑い芸人をつけてみたらそこで彼が出てきた。
おお、いろいろ動画が出てるな。
ステージ上でのゲイの芸もある。
へえこういう芸風なんだぁ、下ネタで面白いぞ。
そうやって見ているうちに一つのネタで考えてしまった。
普通の人がどうのこうのというセリフの後で「じゃああたしたち普通じゃない」と笑いを取るネタだった。
そういえば自分もユーマに「普通の人もゲイバーに行くんですか?」と質問したのを思い出した。
彼らを差別する気はもちろんなく、ノンケとかストレートとかいう専門用語なのか業界用語がとっさに出てこなく普通の人という言葉を使った。
感覚的には業界の人と一般の人という具合だが、そこで考えた。
普通って一体何だ?
自分たちは知らず知らずのうちに大多数派と少数派を区別していないか?
そこでまたコテンラジオの性の歴史を思い出した。
男らしさと女らしさという概念は、なんとなく大昔から続いている考え方だと思っているが、実は明治維新の後にでてきた考え方なのだと。
多分世の中の大多数の人も僕と同じように考えていることだろう。
そういう大きな錯覚の上にこの世はある。
自分がこうだと思っていた事柄が実は違うんだ、という事に気づく楽しさは最近増えているが、ここでもその事にいやおうなしに気付かされた。
そしてまた改めてコテンラジオを聴き直し想ったのだが、歴史というのは全て男の視点で男が記したもので成り立っている。
聖書だって経典だってお経だって数ある歴史書だって、みんな男が書いたものじゃないか。
その上に今僕たちが住む世界が成り立っている。
そして今僕たちはそれに気がつき、新しい世界、今までの価値観を覆す社会を作っていかなければいけない。
古い価値観が全て悪いとは思わないが、より広い視野を持たなくてはならないのである。
長い歴史の中で、女性は物扱いされたりして実質的に人権はなかった。
これは女性に限らず子供にも身体障害者にも人権はなかった。
これは社会的弱者というカテゴリーであって、そういった人々は一緒に社会を形成する存在として認識されていなかったということだ。
そもそも昔はその社会という概念さえもほとんどの人は持っていなかったのだろう。
ニュージーランドでガイドをやっていてネタにするのだが、女性の参政権の世界初はニュージーランドですと。
また世界初の女性の学生もニュージーランドですと。
そのようにこの国では割と早くから女性の社会的権利が認められてきた。
その結果、女性が管理職になりやすい国だとか、女性が政治家になりやすい国として認められてきた。
僕の経験でも女性が上司とか会社の社長とかは何人かいた。
こうやって書くと、女性が声を張り上げて自分の主張を要求するようなイメージを持つかもしれない。
だがこの社会を見ているとそういう抗議活動や闘争の上に成り立っているのとはちょっと違う気がするのだ。
もっと緩やかで自然な流れでできてきたような気がする。
女性だからこうあるべきみたいな感覚があまりないのは男性にもあてはまる。
男の専業主夫というのもよくある話であり、夫婦間でお互いにそれで納得してるならいーじゃん、というノリなのだろう。
同性間の結婚もそれと同じ話で、二人がそれでハッピーならいーじゃん、ということだ。
今の日本ではどうかよく分からないが、頭の固い人が「男が専業主夫なんてみっともない。男は外へ出て働くべきだ!」という考えを持つような社会では同性愛も認められないだろうなと想像はつく。
また身体障害者を見ても、この社会は甘やかさずに本人ができる事は本人にやらせる。
当然本人にできない事は助けるが、『可哀想な人』ではなくその人の個性ぐらいの感覚で人と付き合う。
何年も前に日本で行ったトークライブジャパンツアーの根底にあるのは成熟した大人の社会の話であり、そこは今も変わっていない。
変わった事があるとすれば、この国の社会でもいい事ばかりでなく裏側の闇は深く暗い事に気がついたぐらいだろう。
そしてこれは自分自身の中での変化だが、闇がある事に気がついたとしてもそれを悪として捉えることなく、そこに存在するものという見方ができるようになったことぐらいか。
今回ユーマと出会ったことで自分も影響を受けて、コテンラジオを聴き直したりいろいろかんがえることもあった。
だがやはり根底にあるのは愛であり、そこがあるからこそユーマとのつながりを持った。
男と女というのは人類の永遠のテーマだと思うので簡単に結論が出る話でもない。
そして考え方の鍵としては男の中の女性性と女の中の男性性、これを認めずにして次のステップへは行けない。
男とか女とかそういうの関係なく、人としてどうあるべきか。
愛を心に持ちつつバランスを取って生きて行く。
難しい話のように見えるが実は簡単な事であり、簡単な事が一番難しい。
そんな禅問答のような話で今回の話を締めようか。
ああ、そうそう、ユーマの新宿二丁目ゲイバーラジオ 面白いから聞いてみてね❤️
知らされるのはお客さんの名前と人数。
時に親子であるとか家族旅行とかそういう情報も来るが、ほとんどの場合は分からない。
ニュージーランドは初めてなのか前回もきたことがあるのか、どこの出身だとか、仕事は何をしているのかとか、そういう事をお客さんに聞きながらツアーを進めるわけである。
この日の仕事は男のお客さん一人でテカポまでの日帰り往復。
前日ぐらいに急に決まった仕事であり、僕は普段通りに指定されたホテルへ向かった。
お客さんは30代後半ぐらいの男の人で、アウトドアとは無縁そうな都会に住んでいるような人だった。
車を走らせてすぐに自己紹介をして話を聞くと、当初の予定は友達4人でキャンパーバンでニュージーランドを回る予定だった。
クライストチャーチに着いて最初の晩に車で寝ようとしたのだがあまりの狭さに全く寝られず、友達とキャンプで巡遊というプランをあきらめ一人で行動する事にした。
というような話をディテールまで細かく、こちらが聞いていない事までベラベラと語ってくれた。
住まいは新宿(東京ではなく新宿と言うのだ)とか飲み屋を何件かやっているという伏線バリバリなのだが、僕はそのあたりの勘がとても鈍く、都内で飲食店をいくつも経営しているちょっと風変わりなやり手の人と捉えていた。
ツアーが始まり1時間ぐらいとりとめもない話をしていたのだが、向こうがカミングアウトした。
「実は私ゲイでして新宿2丁目でゲイバーをやっています」
そこまで言われてやっと納得した。
名前は男だが男っぽくない仕草とか話し方とか、新宿に住んでいるとか、車内でも靴を脱いでスリッパを履いている様子だとか、全部当てはまるじゃん。
我ながら自分の鈍さを思い知った。
うちの女房殿はその辺の嗅覚というか勘が鋭く、街を歩いていてもあの人はゲイだとすぐに気づくようだ。
だからと言ってそれで態度を変えるとかそういうのではなく、ただ単に気づいてしまうのだと言う。
それからカツラを見破る能力、整形をしているかどうか見分ける能力に長けている。
そういう実生活に全く役に立たない能力もあるのだなあと感心をする次第だ。
ちなみに僕は相手がゲイだろうがオカマだろうがお鍋だろうが中華鍋だろうが圧力鍋だろうが気にしない。
接する相手の性別、肌の色、年齢、社会的地位、財産や権力の有無によって態度を変えない。
そういうのよりも、金に目が眩んでいる奴、暴力で相手を支配している奴、マウントを取ってくる奴、人を利用しようとする奴などは軽蔑する。
心の中心に愛と平和があれば誰でも友達になれるし、そうでない人間を見抜く能力はあると思う。
「それから堀プロというところでお笑い芸人もやっています」
「ええ?誰かと組んで漫才みたいなの?」
「いえ、芸はピンでやっていて芸名はカタカナでユーマです」
ここまでさらけ出してくれたら、こちらも本音で話ができる。
それまでは「⚪️⚪️さん」と本名で呼んでいたが、そこからは芸名のユーマさんと呼び、車内での話も弾む。
ちなみに実際に話す時には失礼のないようさん付けだが、この話ではユーマと記す。
ユーマはニュージーランドに来る前にシドニーでゲイの祭典マーディグラに行きゲイパレードを歩いたと嬉しそうに語った。
この国でのゲイの立ち位置や社会がゲイをどう見ているかという話をしたらユーマは喜んで聞いてくれた。
ニュージーランドでは男同士や女同士の結婚が認められていて、その法案が決まった時の国会議員のスピーチが素晴らしかった。
意訳をすると「誰かに迷惑をかけているわけじゃなかろうし、本人たちがそれで幸せなら結婚したっていーじゃん」というようなものだった。
ゲイの国会議員もいるし、子供の学校の制服も男女どちらでも選べる。
自分はゲイではないが、ゲイの人には住みやすい社会なんだろうなと思う。
そもそも歴史を振り返ってみても同性愛というのは当たり前に存在していて、同性愛者が変な目で見られるようになったのはつい最近の話である。
このあたりはコテンラジオの性の歴史を最初から最後までもう一度聞きなおしてみた。
世界史ではキリスト教の宗教改革のあたり、日本では明治維新以降の話だ。
平安貴族も鎌倉武士も戦国武将も江戸時代の大名も一般庶民も男色というのは当たり前にあった。
だが明治維新で西洋の文化を取り入れるという話のときに同性愛を迫害する流れが付いてきたというわけだ。
世界史でも同性愛を罪とする話はキリスト教の教えであるが、当のキリスト本人は同性愛について何も言っていない。
その弟子が「売春も同性愛も快楽の為の性行為も全て罪だ」と言い始めて、それ以来そうなってしまった。
一言で書くとそういうことだが、その背景には科学、宗教、社会、文化、哲学、人間の欲望、政治、病気、医学、全ての事柄が複雑に絡み合っている。
その上で今の僕らが住む社会は成り立っている。
定番のフェアリーのパイ屋でパイを食べ、テカポへ。
目の前に湖が広がる景色にユーマは大興奮でキャーキャーとはしゃいでいる。
それはそうだろう。雑多な街新宿に住む人にとって、テカポのような場所自体が最も普段の生活からかけ離れた存在だ。
非日常を味わうために人は旅をする。
僕にとっての日常はお客さんにとっての非日常であり、それを暖かく見守るのが務めだ。
たとえ自分が何百回訪れた場所であろうと、お客さんに取ってはかけがえのない1回だ。
その瞬間を共有する感覚は一期一会に通ずるものがある。
自分はここのローカルだから何でも知っている、という態度を取る人はその時点でガイド失格だ。
あるベテランスキーインストラクターの言葉を借りる。
「スキーインストラクターという仕事は、その人が人生で初めて雪の上を滑るという体験に立ち会う事ができる素晴らしい仕事である」
その思考法が大切なのはどんな仕事にもあてはまる。
お昼時になり湖畔レストランで名物サーモン丼を食べようということになった。
サーモン丼が運ばれてきて、いただきまーすというタイミングでユーマがスマホをテーブルの上に置き、食べながらラジオの収録をしようということになった。
えええ?いきなりですか?まあ自分のポッドキャストもいつもバーで飲みながらだからいいけど。
「ユーマの新宿二丁目ゲイバーラジオ、それそれー❤️」
えええ?そんなノリで始まるの?
他のお客さんもいるし店員さんもいるからあまり大きな声ではできないけど、サーモン丼を食べながらの収録である。
途中で店員さんがお茶のお代わりを持ってきてくれるところが録音されるのも、自分のポッドキャストと同じだ。
面白いので是非聞いてほしい。
なぜユーマが一人でニュージーランドを旅する事になったのかも、この前回の話でしゃべっている。
人間同士のコミュニケーションで大切なのは心理的安全性である。
簡単に言うと思った事を包み隠さずに話し合える間柄、ということだ。
僕は割とホンネで語るほうだが、お客さん相手の商売だから常にそうとも限らない。
だがこの日は全て本音で話が出来て、ユーマも色々と人生を語ってくれた。
聞くと2年半付き合っていた彼氏と別れてしまって、まだその人の事が忘れられなくて、でも私は身を引いた方がいいかもしれないし、でも今回の旅行で新しく出会った人もいてひょっとするといい関係になるかもしれないし・・・・・
そんなような話を車の中で語るのだ。
ゲイの恋愛相談なんて、そうそう出来るものでもないぞ。
そちらの世界の事は何も知らないので自分の答えがどれだけ当てはまるのか分からないが、向こうはただ話したいだけなのかもしれん。
悩んでいる人には申し訳ないが、面白おかしく話を聞いて、ブログネタにするのも承諾してもらった。
僕も新宿二丁目というものがどういう場所か知らないので色々と聞かせてもらうのも面白い。
「そういうゲイバーという店は普通の人も行けるものなんですか?」
「中には専門のお店もあってノンケの人はお断りという所もあるけど、ノンケもいいわよというお店もあってそれはいろいろよ」
「へえ、そういうものなんだ。僕は日本にいた時は田舎というか山奥にいたから都会にほとんど出なかったんです。今度行ってみようかな。」
「是非是非来てぇ、新宿二丁目をガイドしちゃうわよ」
「それは嬉しいな。日本にいつ帰るか分からないけど、その時はお願いします」
そんな話をしながらクライストチャーチに着いて、とても興味深く楽しい仕事が終わった。
家に帰りさっそくユーマでググってみたら真っ先に出てきたのは、未確認生物や未確認動物といったネッシーみたいなものの総称UMAのユーマ。
いやいやこれじゃないぞよ。
お笑い芸人をつけてみたらそこで彼が出てきた。
おお、いろいろ動画が出てるな。
ステージ上でのゲイの芸もある。
へえこういう芸風なんだぁ、下ネタで面白いぞ。
そうやって見ているうちに一つのネタで考えてしまった。
普通の人がどうのこうのというセリフの後で「じゃああたしたち普通じゃない」と笑いを取るネタだった。
そういえば自分もユーマに「普通の人もゲイバーに行くんですか?」と質問したのを思い出した。
彼らを差別する気はもちろんなく、ノンケとかストレートとかいう専門用語なのか業界用語がとっさに出てこなく普通の人という言葉を使った。
感覚的には業界の人と一般の人という具合だが、そこで考えた。
普通って一体何だ?
自分たちは知らず知らずのうちに大多数派と少数派を区別していないか?
そこでまたコテンラジオの性の歴史を思い出した。
男らしさと女らしさという概念は、なんとなく大昔から続いている考え方だと思っているが、実は明治維新の後にでてきた考え方なのだと。
多分世の中の大多数の人も僕と同じように考えていることだろう。
そういう大きな錯覚の上にこの世はある。
自分がこうだと思っていた事柄が実は違うんだ、という事に気づく楽しさは最近増えているが、ここでもその事にいやおうなしに気付かされた。
そしてまた改めてコテンラジオを聴き直し想ったのだが、歴史というのは全て男の視点で男が記したもので成り立っている。
聖書だって経典だってお経だって数ある歴史書だって、みんな男が書いたものじゃないか。
その上に今僕たちが住む世界が成り立っている。
そして今僕たちはそれに気がつき、新しい世界、今までの価値観を覆す社会を作っていかなければいけない。
古い価値観が全て悪いとは思わないが、より広い視野を持たなくてはならないのである。
長い歴史の中で、女性は物扱いされたりして実質的に人権はなかった。
これは女性に限らず子供にも身体障害者にも人権はなかった。
これは社会的弱者というカテゴリーであって、そういった人々は一緒に社会を形成する存在として認識されていなかったということだ。
そもそも昔はその社会という概念さえもほとんどの人は持っていなかったのだろう。
ニュージーランドでガイドをやっていてネタにするのだが、女性の参政権の世界初はニュージーランドですと。
また世界初の女性の学生もニュージーランドですと。
そのようにこの国では割と早くから女性の社会的権利が認められてきた。
その結果、女性が管理職になりやすい国だとか、女性が政治家になりやすい国として認められてきた。
僕の経験でも女性が上司とか会社の社長とかは何人かいた。
こうやって書くと、女性が声を張り上げて自分の主張を要求するようなイメージを持つかもしれない。
だがこの社会を見ているとそういう抗議活動や闘争の上に成り立っているのとはちょっと違う気がするのだ。
もっと緩やかで自然な流れでできてきたような気がする。
女性だからこうあるべきみたいな感覚があまりないのは男性にもあてはまる。
男の専業主夫というのもよくある話であり、夫婦間でお互いにそれで納得してるならいーじゃん、というノリなのだろう。
同性間の結婚もそれと同じ話で、二人がそれでハッピーならいーじゃん、ということだ。
今の日本ではどうかよく分からないが、頭の固い人が「男が専業主夫なんてみっともない。男は外へ出て働くべきだ!」という考えを持つような社会では同性愛も認められないだろうなと想像はつく。
また身体障害者を見ても、この社会は甘やかさずに本人ができる事は本人にやらせる。
当然本人にできない事は助けるが、『可哀想な人』ではなくその人の個性ぐらいの感覚で人と付き合う。
何年も前に日本で行ったトークライブジャパンツアーの根底にあるのは成熟した大人の社会の話であり、そこは今も変わっていない。
変わった事があるとすれば、この国の社会でもいい事ばかりでなく裏側の闇は深く暗い事に気がついたぐらいだろう。
そしてこれは自分自身の中での変化だが、闇がある事に気がついたとしてもそれを悪として捉えることなく、そこに存在するものという見方ができるようになったことぐらいか。
今回ユーマと出会ったことで自分も影響を受けて、コテンラジオを聴き直したりいろいろかんがえることもあった。
だがやはり根底にあるのは愛であり、そこがあるからこそユーマとのつながりを持った。
男と女というのは人類の永遠のテーマだと思うので簡単に結論が出る話でもない。
そして考え方の鍵としては男の中の女性性と女の中の男性性、これを認めずにして次のステップへは行けない。
男とか女とかそういうの関係なく、人としてどうあるべきか。
愛を心に持ちつつバランスを取って生きて行く。
難しい話のように見えるが実は簡単な事であり、簡単な事が一番難しい。
そんな禅問答のような話で今回の話を締めようか。
ああ、そうそう、ユーマの新宿二丁目ゲイバーラジオ 面白いから聞いてみてね❤️
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