翌朝、テントの中でウダウダと日が当たるのを待っていると、突然ゴロゴロと雷のような音が鳴り響いた。
あわててテントのファスナーを開けると、正面の氷河の一部が崩れ、雪崩が落ちる瞬間だった。
雪は岩壁に無数にある窪みの一つを流れ落ちる。
朝日をあびてキラキラと光りながら、雪の流れは一番下の残雪に吸い込まれていった。
「なんとまあ、朝っぱらからすごいものを見せてくれるね、この山は」
朝食をゆったりと取り、テント撤収。そしてUパスに登り始める。
真横から見るとアルファベットのUの直線2本を上に5倍くらい伸ばしたような形をしている。
すごく縦長のUの字だ。言葉で説明するのが難しい。
直線部分は垂直に切り立った岩壁が200m以上。
ナイフで切ったように岩が切れていて思わず笑ってしまう。
人間とは、こんな説明のつかないような物を見せ付けられると笑うしかないのだ。
登るにつれ2つの壁が迫ってきて、どんどん視界は狭くなる。
壁の圧迫感を体で感じながら一気に上り詰めた。
峠の向こうには、見たことも無い山並みが連なっていた。
向こう側も壁に挟まれているので視野は狭い。直下はガレ場が細い谷間に吸い込まれている。
後ろには昨日キャンプをした平ら場が、壁の隙間の向こうに広がる。
頂上には小さなケルンが積まれている。人間が存在した証拠だ。
一体何人の人間がここを通ったのだろう。
なんだかずいぶん遠くに来てしまったような気持ち。
それぐらいに、この場所は人間の世界から隔絶している。
観光バスが通る道から、直線距離で僅か5キロほど。しかしこの場合、距離や標高は問題ではない。
密度の濃い時間、山や氷河からにじみ出る力、岩壁から押し出される奇妙な圧迫感。
神の領域、と呼ぶには安易に来れてしまう。かといって人間の住む世界ではない。
不思議な空間だ。
ビルの谷間のような空を見上げると、糸のように細い月が青空に浮かんでいた。
視界の端で動く物があり、僕を現実に引きずり戻した。
ロックレン、地味だが可愛い小鳥だ。この鳥は標高の高い岩場にしか住まない。
普段森歩きの多い僕は初めてこの鳥を見た。
僕が畏怖を感じたこの場所も、鳥にとっては生活の場でしかない。
鳥はあざ笑うかのように、青い空へ消えていった。
「さらば、名無しの山よ」
もう一度後ろを振り返り、僕らはUパスを後にした。
登りより下りの方が怖いのは、つい昨日味わったばかりだ。
辺りはガレ場、石は不安定で足をのせるとグラリと揺れる。常に『この石は大丈夫かな?』と考えながら次の一歩を踏む。
左右にはカールが並び残雪が点在する。壁という壁は全て垂直に切り立ち、人間の進入を拒む。
「すごいなあ」という言葉しかでてこない。
30分も下るとUパスは完全に見えなくなった。あの向こうにあんな世界が存在するなんて・・・。
自分の想像を越えるものがそこにあるのは毎度の事だが、今回もまたこの国の自然にやっつけられてしまった。
岩の裂け目を下りハットクリークの本流に合流、ここで休憩。
この場所もまた、別の巨大なカールがある。カールに次ぐカール、U字谷の先のU字谷。
こういう所でいつも感じるのは人間の小ささだ。
「すごいなあ」何回、何十回この言葉を口にしただろう。言葉が景色に追いつかない。
よって口を開けば「すごいなあ」になってしまう。
もうちょっと気の利いた言葉の一つでも欲しいのだが、それしか出て来ないのだから仕方がない。
僕の思惑をよそに、山は無言で僕達を見おろす。
川原沿いをしばらく歩くと、Uパスへ続く細い岩の裂け目さえも見えなくなった。
「あの奥にはあんな世界があるんだね。まるで夢みたいだよ」
「ホントにねえ」
「夢だったのかなあ」
「2人一緒に同じ夢を見てたんですよ、きっと」
「うーん、それにしてもあの谷間の奥の世界は人間の想像の限界をはるかに越えているよね」
「全くです」
「だけど、これを人に伝えるのは難しいよね」
「難しいですね」
「行った人なら分るんだろうけどな、『そうそう、あそこはスゴイんだよ』ってね」
「ナルホド」
「しかしさあ、このコース2日かけて正解だよ。1日だったら何が何だか分らなくなるよ。きっと」
「ホントにそうですね」
間も無く森の入口に見慣れたオレンジ色の三角が見えてきた。
森に入ると世界は一転する。それまでのゴツゴツした岩を踏む感触から、柔らかい苔へ。苔の弾力が限りなく優しい。まるで苔達がお疲れ様、とねぎらってくれるようだ。
見るものも無機質な岩肌から、無数の命が溢れる森へ。濃い緑色が目に心地よい。
道はなだらかに下り、思う存分森歩きを楽しめる。肩の力を抜き、しっとりした空気を吸い、森に身をゆだねる。森は僕たち2人を優しく包み込んでくれた。
昨日の午後に森を抜けて、まる1日も経っていないのだが、なんだかとてつもなく長い旅をしたような気分。
それくらいUパスの印象は強烈であり、密度の濃い時間があったのだ。ほんの数時間前の景色が夢のようだ。
森から出て川原を歩き、再び森へ。前方下にエグリントン川が見えてきた。ゴールは近いのだろう。
ここにはほとんど人が入らないのだろう。数々の花がトラック上にも咲いている。
とてもよけながら歩くなんて不可能だ。よってスマンスマンと言いつつ花を踏んで歩く。
森相が変り、見慣れた赤ブナの森へ。かなり降りてきた証拠だ。
そして渡渉。川をブーツのままザブザブと渡る。
汗でムレた足が冷やされて心地よい。但し川を出ると、ブーツの中に水がたまり、不快である。
厚さが30センチ以上もある苔のじゅうたんをモソモソ歩いていると、前方にバスが通るのが見えた。
そして車道に出たとたんにガソリンの臭いがした。文明という世界に帰って来たのだ。
ザックを下ろしブーツを脱ぐと、トーマスが尋ねた。
「まさかビールなんて無いですよね」
「あるよ。飲もうぜ。昨日のがまだ残ってる」
「ウヒョー、やったあ!ビールがあればいいなあ、って思いながら歩いてたんですよ」
「まあまあ。今日も大地に、だね」
「大地に」
2日間遊ばせてもらった山に、氷河に、森に、川に、そしてそれら全てをのせた母なる大地に感謝を捧げスパイツを飲み、一つの山旅が終わった。
完
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