あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

トーマスとUパス 3

2016-06-22 | 過去の話

道標のある山道はここで終了、この先は支流沿いの歩きやすい所、登れそうな所を選んで行く。
時には水の流れのすぐ脇の岩を伝い、時には茂みをガサゴソ掻き分けて進む。
こういった路はアンマークドルートと呼ばれ、トレッキングでも上級者向きだ。
そんな調子で歩いていくと正面に滝が見えてきた。
周りの景色の中では小さく見えるが、あれだって落差50m以上はあるだろう。今日のポイントは、あの滝をどうやって越えるかだ。
滝の両脇は岩が切り立っていて登れそうも無い。ちょっと離れた斜面は心もち緩やかで何とか行けそうだ。
呼吸を整え、登り始める。斜度は50度以上あるだろうか。時折り両手で岩とか草の根を掴みながらよじ登る。
上を行くトーマスの足元から崩れた石がゴロンゴロンと数m横を転がり落ちる。
大人の頭ほどの大きさの石だ。当たれば痛いでは済まないだろう。
こんな所ではちょっとしたルートの選択が命とりになる。
トーマスのルートと離れ、誘われるように進んだ先で僕は動けなくなってしまった。
上へ登る取っ掛かりが無くなってしまったのだ。下へ下ろうにも重いザックを背負った体は自由が利かない。
恐怖という感覚が僕をおそった。
まずは足場を確保して、呼吸を落着かせることだ。
目の上にはいかにも滑りやすそうな岩が続いており、30センチ横には岩の切れ目が数十m下へ落ちている。
下を覗いたが、怖くなるだけなのですぐにやめた。
ここで落ちたら間違いなく死ぬだろう。こんな時にいつも浮かぶのは妻子の顔である。
こんな所で死ぬわけにはいかない。あたりまえだ。
来た場所を下り始める。
山に登ったことのある人なら分るだろうが、登りより下る方が危険で怖い。
絶対に落ちない事を第一に考えながら、三点確保でソロソロと岩を下る。
時々足元の岩が崩れ、はるか下へ転がり落ちる。あんなふうにはなりたくないものだ。
やっとの思いで数mほど下り、別のルートを探す。
トーマスがよじ登った所を試してみたが、僕には無理だった。
またまた冷や汗を流して下り、さらに別のルートへ。
トーマスが上から覗き込んでルート取りを教えてくれた。
そこへ向かうのだって決して楽ではないのだが、他に選択は無い。
なんとかかんとか上の台に体を押し上げてトーマスと合流。やれやれ。
緊張が緩み、やっと景色を見る余裕ができた。
眼下にはくっきりしたU字谷が横たわり、正面には別のU字谷が岩壁の中腹から奥に伸びている。
いわゆる吊り谷と呼ばれるものである。
自然の造形とは美しいものだ。
「ああ、怖かった。一時はどうなるかと思ったよ。それにしてもきれいなU字谷だね。オレ考えてみたらこんなU字谷の中を歩くのは初めてだ。ミルフォードもこんな感じ?」
僕は世界一美しい散歩道と言われているミルフォードトラックを歩いた事は無い。じっくりとプランを温めているのだ。
「そうですね。ミルフォードはもっと長い谷なんです。何日もかけて谷底を歩くから、ここよりはるかに長いU字谷ですよ」
「ふーん、そうか。それに植生も違うよね。この辺の草花はオタゴでは見られないからなあ。これがフィヨルドランドの植物なんだな」
本でしか見たことの無い花を実際に見るのは楽しいものだ。
しかしここへたどり着くまでは、それどころではなかったのだ。
トーマスが僕の知らない草花の説明をしてくれる。ガイド付き山歩きだ。
さらに登り、一段上の大地にたどり着くと、そこには別の世界があった。



広さで言えば陸上競技場3つ分くらいだろうか。人口構造物がないので大きさが掴みづらい。
その広さのまっ平な土地の周囲をぐるりと200m以上ある岩の壁が囲む。
この場所をカールと呼んでいいのだろうか。イメージとしては巨大なタライだ。
唯一切れている向こうには、今怖い思いをして登ってきたU字谷が続く。
Uパスがあるであろう岩の切れ目が見えるが峠自体はまだ見えない。
正面には一番大きな氷河を中腹に抱いた山が居座る。
氷河の上下に数百mの垂直な壁が立つ。この山にも氷河にも名前が無い。
名無しの氷河の下には無数の溝が壁に深い切れ込みを作り、それらの中央、平場のはずれには残雪が厚く積っている。
そんな景色を見ながら僕達はトラバースを続け、Uパスの下に出た。
「なんだ、こりゃ?」
「なんでしょう?」
僕らの頭上には、200m以上のスッパリと真っ直ぐに切れた岩の壁が向き合っている。
2つの壁の間は30mほどあり、その向こうに真っ青な空があった。
「あれがUパス?」
「そうみたいですね」
「なんとまあ。どうしてこんなのが出来ちゃったんだろう」
「ホントにねえ」
「あんなに狭い所、風が強そうだね。それに景色だって見えるかどうか分らないぞ」
「朝日も当たりそうに無いですね。寒そうですよ。ここでキャンプにしましょうか?」
「そうしようよ。この名無しの山だってスゴイよ」
当初は峠の頂上にテントを張る予定だったのだが急遽変更。
目の前にはまっ平な大地が広がっている。フカフカのクッションプラントの上に寝たら気持ちが良さそうだ。
テントを張り終えると、トーマスがザックからビールを出しながら言った。
「まあ、とりあえず乾杯しましょうよ」
スパイツ、それも500ミリ缶2本。単純に考えても1キロの重さだ。ヤツはそれをかついでこの急な岩場を登ってきた。やるなあ。
「でかしたトーマス。じゃあ今日は文句無く、大地に!」
「大地に!・・・・・・くーっ!ウマイ!」
「プハー!効くなあ。しかし、まあ、すごいねこの景色」
「全くですよ。これだけの山と氷河があって、ここに見えるものは全て名無しのものなんですよ」
「うーん、なんだかなあ。言葉にならないよ。こんなところ冬は絶対来れないなあ。雪崩の巣だよ。雨の時もイヤだな。きれいだろうけど」
「雨が降ったらこの辺は滝だらけでしょうね。・・・そうか!ああやってカスケードができるのはミルフォードだけじゃないんだ。この辺りの山が全てそうなんですね。人間が手軽に行けて、見えるのがミルフォードだけのことなんだ」
ミルフォードサウンドへ行く道は、切り立った崖をかすめるように通る。
雨の日にはカスケードと呼ばれる無数の滝が現われ、それはそれで綺麗なのだ。晴れの日と雨の日では景色は全く違う。
「そうかあ、この辺の山が全部、アレなのか。うーん」
「さてさて、ご飯でも作りましょうか。ウヒョー!こんな景色を見ながらメシを作れるなんて!」
ヤツは調理をしやすい方向に座りなおした。
その先には自分達が這い上がってきたU字谷、そして落差が大きすぎて途中で消えてしまう滝がスローモーションのように落ちている。
いつのまにかビールが無くなり、僕の缶が倒れていた。
「あら、ビール終わっちゃったんですか?じゃあ、もう1本、これは半分コです」
そう言いつつヤツはビールをザックから引っ張り出した。さらに
「それが終わったら、こんなのはいかがでしょう?」
焼酎入りのペットボトルだ。
「あれまあ!やるなあ、トーマス。重かっただろ?」
「いやいや、このひと時のためならね」
こういった遊びは徹底的にやった方が楽しい。その労力を惜しまない人はステキだ。
食事のあとでも周囲は充分明るい。
「じゃあ、こんな場所で本を読んじゃうのはどう?」
僕はザックから1冊の本を出してトーマスに渡した。
今回持ってきたのは野田知佑の『旅へ』。こんな場所で読むのにピッタリだろう。
「いいですねえ。ではでは、今度は氷河の方を向いて・・・ウヒョー!こんな中で本が読めるなんて」
ヤツは幸せそうに本を読み始めた。
どこで飛んでいるのだろうか、高山オウム、ケアの甲高い鳴き声が夕闇せまる谷間に響いた。




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