彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「百間橋址」

2007年05月05日 | 史跡
「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に佐和山の城」という有名な言葉がありますが、これは石田三成の所有物で三成が持つには勿体無いモノとして、猛将・島左近と佐和山城があるという事を示した当時の落首でした。
 そんな“三成に過ぎたるもの”としてこの二つに並んで挙げられる物が、今回ご紹介する“百間橋(ひゃっけんばし)”です。

 石田三成が佐和山城を居城としていた時、彦根山の北側には“松原内湖”と呼ばれる大きな湖がありました。この松原内湖に今の流れに変わる前の善利川(芹川)が流れ込んでいたのです。
『彦根古図』を見るとそんな松原内湖と琵琶湖の間にある陸地だった松原には何本かの水路が掘られていた事と、その陸地と佐和山城の麓を結ぶ橋があった事が記されています、この橋が百間橋になります。
佐和山城は山の上に建てられた城でしたが、琵琶湖の監視も行い、琵琶湖から陸揚げされる物資も沢山ありました。そう言った物資は一度松原の蔵に入れられたのです。
そんな松原の物資を運ぶ時は松原内湖を大きく迂回するか内湖に舟を浮かべるしかなかったので、最短距離で直接運べるようにと島左近が架けさせた橋が百間橋でした。『彦根古図』の記録に幅三間(約5.4m)長さ三百間(約540m)もあったと記されて』いますので大きな物だった事は間違いないようです。

佐和山側はそのまま島左近の屋敷の近くまで続いていましたので、左近がどれほどこの橋を重要視していたかもうかがい知る事ができますよね。

そして、冒頭の落首が「佐和山の城」から「百間橋」に変わっていた時期もあったそうですから、立派な橋だった事が改めて分かります。


その後、彦根の領主が井伊家に変わっても百間橋は大切な交通手段として活躍し、何度も架け替えが行われましたが、戦後になって松原内湖が埋め立てられてしまったので橋が不必要となり、今は古い写真でしかその姿を見ることはできません。

彦根市のお隣・豊郷町にある財団法人豊会館『又十屋敷』には、在りし日の百間橋の標柱(写真)が現存していますので、昔の名残を探しにお出掛けになってみてはいかがでしょうか?
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