彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月4日、六代藩主・井伊直恒死去

2007年10月04日 | 何の日?
宝永7(1710)年10月4日、彦根藩六代藩主・井伊直恒が亡くなりました。享年19歳。
この頃、彦根藩は彦根城第一期工事が完成して100年を越えた盛りの時だったのですが、密かに藩滅亡の危機を迎えようとしていたのです。

今回はそんなお話。


直惟は四代藩主・井伊直興の十男として江戸で誕生し一度も彦根の土を踏まないままに江戸藩邸で育ちました。

兄で五代藩主でもある井伊直通は自分が病弱だった事を憂いて、自分に何かあった時は弟の主計頭(直恒)を次の藩主に据えるように言っていました。
しかし、そんな事は杞憂に過ぎないと家臣は当然の事、直恒もそう信じていたに違いありません。
ましてや、江戸生まれで江戸で育った直恒に彦根の責任を負う事は夢にも思わなかった事でしょう。


しかし、直通の不吉な憂いから4ヵ月後の宝永7年7月25日に直通は22歳で亡くなったのです。

こうして同年8月12日に直恒の藩主相続が幕府から許されたのです。
しかし10月4日、直恒は彦根藩主でありながら一度も彦根城を見る事もなく19歳で亡くなります。

直恒の藩主在任期間は約50日、後継ぎは定められていませんでした。
直恒は彦根藩主の中で一番短い在任期間となります。


本来、後継ぎの決まっていない藩は取り潰しに遭うか、減俸となる筈でした、少し前に米沢上杉家では後継ぎが居ないまま藩主が亡くなって急遽、吉良上野介の息子を養子にしましたが石高が30万石から15万石に減らされるという罰を受けています。
(忠臣蔵で吉良家に上杉家が味方するのはこんな関係があるからなんです・・・)

でも、大老になりうる家柄の井伊家を同じ様に罰する訳にもいかなかった幕府は、窮余の策として直恒の弟が育つまで直通・直恒の父で四代藩主だった直興に藩主を再任させたのです。

こうして井伊家は次の男子・11歳の直惟の成長を待つ事になったのです。
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