彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月14日、大政奉還

2007年10月14日 | 何の日?
慶応3(1867)年10月14日、二条城で大政奉還が宣言されました。
こうして、264年8ヶ月2日の江戸幕府が終焉を迎えたのです。
ペリー来航から14年半、桜田門外の変から考えるならたった7年半で幕府は崩壊に向かったのでした。
同日、薩長に対し『倒幕の密勅』が出されますが、大政奉還により事実上無効となりました。


江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は幕府に不利になりつつある政局を打開する策として政権を朝廷に返上すると言う起死回生の手を打ちます。
約265年、鎌倉時代から考えるなら建武の親政と呼ばれる5年ほどの期間を除いても670年近くは自ら政治を行う事が無かった朝廷が急に権力を渡されても困って政権を返してくるだろうと慶喜は考えていたのです。

これに対し薩長は“王政復古の大号令”をする事で幕府の時代が終わった事を強調したのでした。


ちなみに、薩長は武力倒幕を目標としていたので大政奉還が煙たいものでしたので、江戸薩摩藩邸で盗賊を雇い江戸市中で放火・窃盗を行います(御用盗)、これに反発した庄内藩が薩摩屋敷を焼き討ちしたために戊辰戦争の悲劇が起こりました。

そんな武力衝突を避けたかったのが坂本龍馬で、大政奉還は龍馬の案を後藤象二郎が山内容堂に進言し容堂から慶喜に薦められたのです。
こんな龍馬の話を明治になってから新聞小説で読んだ慶喜は「龍馬が生きている間に会いたかった」と言ったといわれています。


大政奉還に彦根藩が大きく関わった事がありませんが、彦根藩は江戸幕府があるからこその藩ですので大政奉還も大きな衝撃だったのではないでしょうか?


余談
慶喜の名前ですが、普段は「よしのぶ」と呼びますね。
でも将軍時代は「よしひさ」と呼ぶようにとの幕命がありましたし、明治以降は「けいき」と呼ばれていました。
慶喜自身は「けいき」と呼ばれる事を好み、旧幕臣は「けいきさん」と呼んでいたそうですよ。
コメント
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